むかしの上石川村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
上石川村
洪積台地にあり、河川がなく溜池からの用水による稲作が行われているが畑作が主である。元禄初年に二給に分け郷となり、のち三給その後二給となる。幕末の村高は田480石余・畑397石余で、家数63軒・人数363人とあり、奈佐原宿の助郷村であった。曹洞宗永林寺の本堂千手観音像と天台宗円満寺薬師堂にある建保6年(1218)の銘の鉄造薬師如来坐像はともに県指定文化財となっている。
上石川村の概要
上石川村は、黒川・姿川という二つの河川にはさまれた台地上に位置し、稚児沼、極瀬沼といった溜池を先頭に谷田が分布する畑作優位の村である。文禄2年(1593)の検地帳では、田四二町一反余、畑一〇三町八反余、屋敷二町一反となっており、明暦2年(1656)の検地帳では田五〇町七反余、367石余・畑一〇一町二反余・429石余が名請されている。近世の支配関係は、当初宇都宮藩領であったが、貞享4年(1687)に幕府領、元禄4年(1691)に三給の相給村となり、そののち何度かの領主の変遷を経て元禄14年(1701)頃までに480石余の旗本須田領、390石余の旗本畠山領の二給村として安定し、幕末を迎えた。西側の旗本畠山領が「中石川村」と呼ばれることもあったようである。村内には鎮守虚空蔵(星宮、現在の根裂神社)、曹洞宗恵林寺(現在の永林寺)、天台宗円満寺などがあった。村内南部にある薬師堂には建保6年(1218)銘のある鉄造薬師如来坐像があり、村内外から多くの信仰を集めた。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本に
よる分給支配地である。
相給=複数の領主下 |