むかしの押原村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
押原村(鹿沼宿)
天文元年(1532)に壬生氏の築城により城下町となり、また壬生氏と日光山との深いかかわりから今宮権現が勧請され今宮神社が建造された。天正18年(1590)壬生氏の滅亡後はその機能を失ったが、江戸時代に入って徳川家康の日光廟の造営とともに御社参の街道の宿場町として町割りがなされ、元和3年(1617)家康の遺骸が薬王寺を経て日光廟に祭祀されてより、宿場として繁栄するとともに地域の産業・経済・文化の中心部となった。宿場には南北に二筋の街道が通り、田町・内町があり、田町・内町それぞれ東・西に別れ、名主・問屋が置かれた。また両者の東側を合わせて押原東町、西側を合わせて押原西町と称し、元和3年(1617)東町・西町に分け二給支配、享保10年(1725)両町同支配、安永4年(1775)より宇都宮藩領となった。「慶安郷帳」には二筆で記載される。一筆は512石余(田244石余・畑268石余)、一筆は473石余(田228石余・畑245石余)、ほかに朱印地が今宮権現50石・宝蔵寺10石・薬王寺10石や寺社の除地があった。慶安2年(1649)以降の村高は、東町964石余、西町719石余であった。
このように村内が東町と西町にわけられ、異なる領主によって支配されることとなった。街道筋に当たり、問屋は交通・運輸に携わり、大通行の時には助郷村の人馬の差配に当たった。鹿沼宿の宝永7年(1710)の助郷は西鹿沼村など二二か村勤高一万二二九六石であった。また公用の本陣や脇本陣があり、旅籠屋も増加して賑わった。交通量の増加とともに往還筋にある内町が発展し、古来の四・九の市日も繁昌するようになったが、市日以外の商いも盛んとなり、田町と内町の間で販売商品をめぐって幕末まで激しい争論が続いた。天保9年(1838)には家数738軒・人数2851人とあり、同14年(1843)には酒造10・穀屋13・麻24・荒物22・大工22・茶屋26・旅籠屋20をかぞえ、また大麻や木材などの特産物を介して江戸や房総などと商取り引きや交流も盛んになり、生活・文化も向上し、今宮神社の祭礼には豪華な彫刻をもつ屋台が出現して踊り・狂言が催された。また鈴木石橋により私塾「麗沢の舎(りたくのや)」がひらかれるなど、地域の産業・経済・文化の中心地となった。
押原村の概要
押原村(鹿沼宿)は、北を武子村・玉田村、南を上殿村、東を下府所村・茂呂村、西を西鹿沼村・花岡村などに接していた。天正18年(1590)、壬生氏が改易すると、結城氏や大河内代官の支配を経て、慶長15年(1610)に御書院番頭阿部正次(備中守)に支配された。元和3年(1617)正次が上総大多喜へ転封、この頃、押原村は押原西町と押原東町に分郷された。東町は、主として阿部氏や幕府が支配したのに対し、西町は、井上・朽木・内田といった大名の支配が享保10年(1725)まで続いた。その後、50年間、幕府領となり、戸田氏の宇都宮藩領となってからは、幕末まで支配は変わらなかった。 |