むかしの見野村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
見野村
黒川が足尾の山地から流れ出した扇状地の村。ふるく日光の社領「美濃郷」のことだという。「慶安郷帳」には田378石余・畑378石余とみえる。天保9年には家数66軒・人数318人を数える。村内に護竜山長光寺(曹洞宗)がある。もとは臨済宗であったという。明和4年(1767)、寺領内の菊沢の山崩れで唐銅塔が出土、唐銅塔には観音銅像がおさめられ、鏡に興国4年(1343)三月吉日付で「当塗王経一字三礼一品一銭千部、宝祚興久兼藤三位資通卿公冥福、藤従一位宣房卿公福寿、不二行者授翁敬白」とあり出土品は万里小路藤房の遺物、長光寺は藤房の遺跡と伝えられている。
見野村の概要
中世には、日光山領のひとつ「美濃郷」をなした。「慶安郷帳」で田378石余、畑378石余の村高であった。阿部重次領、武蔵岩槻藩領、甲斐谷村藩領、下総多古藩領を経て、寛政期より三給支配を受け、天保期には、幕府領・多古藩・下妻藩・旗本蜷川氏領の四給支配となる。谷村藩領時代の宝永2年(1705)に、東西および新見野の三か村に分村した。そのうち東見野村は、幕末期、幕府領と蜷川氏領とにわかれていたが、幕府領分の村明細帳によれば、鹿沼道の土橋や用水堰の管理や普請を隣村富岡村と共同でおこなっていたことがわかる。農間の稼ぎとして、男は薪・落ち葉取り、女は布・木綿・麻糸作りが挙げられている。天保9年(1838)の見野村全体の家数は66軒、人数は318人、幕末期の村高は1050石ほどであった。東西および新見野村は、明治4年(1871)に合併し、もとの見野村に復した。見野村北部山麓にある長光寺は、もともと臨済宗であったが、玉田村の瑞光寺八世妙極によって中興され、曹洞宗に転じたといわれている。他に新義真言宗智山派の延蔵寺と城宝寺がある。長光寺の西に位置する喜久沢神社は、万里小路藤原藤房を祭神とし、明治7年(1874)には県社の社格が与えられた。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年 |