むかしの亀和田村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
亀和田村
西部で小藪川と思川(小倉川)が合流する水田稲作地帯である。地内に例幣使街道が通り、思川には仮土橋が架かる。正徳2年より幕末まで鳥居(壬生藩)領。天保年間の村高627石余・家数57軒、楡木宿の助郷村であった。
亀和田村の概要
現鹿沼市の南端に位置する村で、南は七ツ石村(現壬生町域)。村の西を小倉川が南流し、近世期には対岸は金崎宿をはじめとする西方郷であった。例幣使街道は金崎宿より当村に入り、当村内を北上して磯村を通り、楡木宿に至る。「慶安郷帳」には287石余、「元禄郷帳」には402石余が記載される。寛永16年(1639)には壬生藩領で、以後壬生藩領のまま幕末に至った。「天保郷帳」では627石余。寺社には日蓮宗顕照寺、大日堂、星宮、文明元年(1469)創建と伝える天満宮、ほかには河原坪によって祀られる稲荷社がある。明治初年、神仏分離により大日堂は神明宮と改称、村社となった。星宮も神仏分離により明治初年に磐裂根裂神社と改称した。 |