むかしの茂呂村 (現在の茂呂・東町・幸町・緑町・西茂呂・栄町・晃望台)
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
下茂呂村の概要
下茂呂村は、黒川左岸の段丘上に位置する畑作を中心をした村である。もとは上茂呂村とあわせて茂呂村を形成していた。延宝4年(1676)にはすでに上茂呂村・下茂呂村の名称の使用が認められるが、貞享3年(1686)までにはほぼ二村に分村したものと思われる。村の支配関係は宇都宮藩領、幕府領、旗本西郷領、宇都宮藩領、幕府領、旗本小笠原領、幕府領、佐倉藩領、幕府領と目まぐるしい領主の変遷があり、最終的には寛政10年(1798)から幕末まで佐倉藩領であった。村の南端には元亀年間(1570〜1572)に築城されたと伝えられる茂呂城跡があり、現在も掘割を確認することができる。村の北端に上茂呂村・下茂呂村の檀那寺としての天台宗智音寺があり、もとは村の南端にあった万蔵寺を移動したものとされる。また、鎮守は村の南端に位置する星宮社(虚空蔵)である。
慶安郷帳 1648年 元禄郷帳 1701年 天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。相給=複数の領主下
自分のお寺のことを檀那寺(だんなでら)と呼ぶ。檀那寺とは布施で成り立っているお寺のこと。その布施する家のことを檀家という。
上茂呂村の概要
上茂呂村は、黒川左岸の段丘上に位置し、谷頭溜、西茂呂溜といった溜池を先頭に谷田が分布する村である。近世前期には下茂呂村も含め、茂呂村として一村であったが、のちに上茂呂村、下茂呂村に分村した。貞享3年(1688)に上茂呂村のみを対象とした新畑検地帳が残されていることから、茂呂村が上下二村に分村したのはその頃と推定される。明暦2年(1656)に茂呂村としての宇都宮藩による検地を受けており、田高211石、畑高352の石高が打ち出されている。畑一〇〇町余に対して田が二五町余の畑作優位の村である。分村後の石高は、宝暦10年(1760)の記録によれば、下茂呂村が300石余、上茂呂村が358石余である。近世の支配関係は、下茂呂村と同一で、宇都宮藩領、幕府領、旗本西郷領、宇都宮藩領、幕府領、旗本小笠原領、幕府領、佐倉藩領、幕府領と目まぐるしい領主の変遷があり、最終的には寛政10年(1798)から幕末まで佐倉藩領であった。上茂呂村の鎮守は高尾神であり、かつて村内には天台宗宝蔵院があった。
茂呂村
村の中央に茂呂山(192.6m)がある。洪積台地で河川がなく畑作地帯であるが、茂呂溜をはじめ多くの溜があり、これらの用水によって水田稲作が行われてきた。宝永4年(1707)の新田畑検地では、上・下に分けて検地帳が作成されており、宝暦10年(1760)の記録では上茂呂村分358石余・下茂呂村300石余とある。天保9年には家数80軒・人数394人・居酒屋1・質屋1とある。鹿沼宿の助郷村であった。 |