むかしの赤塚村 (現在の北赤塚町)
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
赤塚村
赤塚村東部を南流する黒川を灌漑用水とする水田稲作地帯である。正徳2年より鳥居(壬生藩)領。天保年間の村高591石余・家数70軒。楡木宿の助郷村であった。明治12年(1879)北赤塚村と改称した。天台宗広済寺がある。
赤塚村の概要
現在の鹿沼市域南部、現壬生町に接する地で、黒川西岸に位置する村である。北は黒川をはさんで藤江村、西は亀和田村で、南は七ツ石村(現壬生町域)、東は羽生田村(現壬生町域)となる。「慶安郷帳」では田159石余、畑164石余、「元禄郷帳」には437石余、「天保郷帳」に591石余が記載される。寺院には真言宗竜光寺、天台宗広済寺があり、神社には磐裂根裂神社(近世の名称は星宮であったと考えられる)八竜社、稲荷社、鎮守の愛宕社がある。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本に
よる分給支配地である。
相給=複数の領主下 |