むかしの上南摩村 (現在の上南摩町・旭が丘)
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
上南摩村
南摩川の上流地域。東は野尻村、日光往古社領六十六郷に「南摩郷」がある。「慶安郷帳」で田117石余・畑548石余・宝蔵(城)寺領10石・広厳寺領7石・輪福寺領3石・北坊領5石・鹿島明神領5石・八幡宮領3石がある。明和5年(1768)には高1195石余で、田四町二反余・畑五〇町九反余・家数30軒であった。天保期に青木保高が寺子屋をひらき、その子幸躬は国学に心を傾けた。上南摩村と下南摩村の西沢・油田・新田三か村の間で寛永11年(1634)に結ばれた山入会の資料は珍しい。また宝城寺前では市日が定められた市がたち、萱・薪の販売がおこなわれた。
上南摩村の概要
上南摩村は、南摩川の上流部に位置する山間村落であり、南摩川流域の各所に小集落が点在する。戦国時代には「上南摩郷」と称され、滝の沢に存在する竜蓋山城(りゅうがいさんじょう)を居城とし、字「堀之内」に居館を構える南摩氏の支配下にあった。南摩氏は小田原北条氏に属して命運をともにし、子孫は岩城平を経て幕末まで会津に居住、明治になって上南摩に帰村している。近世以降、南摩川下流流域の下南摩郷が三村に分立したのに対して、上南摩郷はそのまま一つの村として継続した。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年 |