むかしの深津村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
深津村
洪積台地に位置するが、白桑田村との境を武子川が貫流し、武子川の用水や溜池の水を利用した水田稲作が行われてきた。天保9年には村高723石余・家数54軒・人数276人・居酒屋1・質屋1とあり、白桑田村と同領支配で鹿沼宿の助郷村であった。古墳や遺跡が多く、深津城跡には天台宗延命寺があり、住職蓮海和尚の開いた寺子屋は明治初年可及舎と称された。
深津村の概要
深津村は、武子川の右岸に位置する村落である。近世ほ村高は、「慶安郷帳」には田292石余、畑150石余とあり、「北犬飼郷土史」によると明暦4年(1658)には699石余となっている。貞享3年(1686)に幕府領となり、元禄期に甲斐谷村藩領、宝永元年(1704)には足利藩領となり幕末に至る。村内の字中城には宇都宮氏の家臣小林豊後守が築いたと伝える出丸城(深津城)があり、二の丸とされる場所には小林豊後守の菩提寺である延命寺がある。また、字中台原には、養老5年(721)の勧請と伝えられる八坂神社が鎮座している。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本に
よる分給支配地である。
相給=複数の領主下 |