むかしの楡木村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
楡木村
東部に黒川・西部の山麓を流れる小藪川に挟まれ灌漑に恵まれた水田稲作地帯である。南部で壬生通りと例幣使街道が合流して地内の中央を縦貫し、街道筋の宿場として発達した。元禄以後は村高666石余、奈佐原宿とともに幕末まで天領であった。宿内には上・下問屋があり、助郷は享保17年(1732)磯村ほか16か村・勤高7046石余・伝馬役13人・13疋、当宿から鹿沼宿までの継ぎ立てをする相宿で、奈佐原宿と合わせて本宿分の役員負担となった。大通行のときは両宿相談の上当番制により継ぎ立てた。天保14年の家数128軒・人数511人・本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠屋15軒。
楡木村の概要
壬生通りの宿場である楡木宿を抱える村。壬生通りと例幣使街道が磯村より当村に入り、楡木宿で合流する。北は塩山村・奈佐原村で、壬生通りは奈佐原村に通じる。村の西部は丘陵となり、半田村(現粟野町域)に接する。一方、黒川に面した東部は平坦地で、壬生通りが通る。楡木・奈佐原宿組合29か村の寄場であった。当初はは壬生領で、元禄期以降は幕府領となり幕末に至った。「慶安郷帳」で田333石余、畑309石余、「元禄郷帳」に666石余、「天保郷帳」に666石余が記載される楡木宿は壬生宿と奈佐原宿の間に位置し、文化11年(1814)には旅籠17軒。寺社には真言宗成就院、真言宗観音寺、十二社、稲荷社(田中稲荷)、鎮守として星宮大明神がある。観音寺は明治に入り廃寺となり、星宮大明神は明治2年(1869)に楡木神社と改称、村社となった。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配:一村一領主
二給支配:一村二領主
三給支配:一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給 :複数の領主下 |