むかしの樅山村
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
樅山村
西部は丘陵でその山麓の平地にあり、その地内の中央を貫流する小藪川を灌漑用水とする水田稲作地帯で、古くは籾山ともある。東部には壬生通りが通り、街道筋の大門宿には町並みがある。元禄年間(1688〜1703)には村高607石余で、二給に分け郷となり、のち三給となる。奈佐原宿の助郷村で慶応4年(1868)の家数67軒・人数400人・馬31疋とあり、生子神社の「泣き相撲」が有名である。
樅山村の概要
樅山村は村の中央を壬生通りが南北に走り、東部を黒川が流れ、西部は丘陵地帯で麓を小藪川が南北に流れている。東は日光奈良部村、南は塩山村、西は酒野谷村、北は村井村・上殿村に囲まれている。「慶安郷帳」では518石余の幕府領と武蔵岩槻藩領の二給、「元禄郷帳」では607石余の旗本向山七之助・小林十郎兵衛、幕府領の三給になっている。天保年間(1830〜44)の家数47軒、慶応4年(1868)には家数67・人数400人・馬31になっている。元禄9年(1696)奈佐原宿の定助郷に編成された。村には生子神社・曹洞宗の光明寺がある。生子神社は神亀3年(726)の創建と伝えられており、安産・痘瘡・育児の神として庶民の信仰を集めている。光明寺は寛正年間(1460〜66)の創建とも、文明年間(1469〜87)の創建とも伝えられている。慶安2年(1649)将軍徳川家光より朱印地7石を与えられ、幕末に至る。なお、生子神社の別当を務めていた浄慶院があったが、慶応2年(1866)以来無住となって、明治8年(1875)廃寺となった。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給=複数の領主下 |