むかしの下久我村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
下久我村
村の中央を荒井川が流れる。上流に上久我村、下流に上加薗村がある。「慶安郷帳」に田98石・畑320石余・普門寺領2石がある。日光御神領で御飾竹52本を納めている。嘉永6年(1853)から報徳仕法が実施された。同年の家数92軒・人数466人・馬46疋で総反別八〇町五反余のうち一八町二反が荒畑となっている。村にある常真寺は所の領主久我民部大輔光綱の菩提を弔うため元亀3年(1572)に建てられたという。
下久我村の概要
足尾山地石裂山の東麓にあたり、大芦川の支流である荒井川の中流域に位置する。荒井川は村の中央を北西から南東に流れ、近世期は都賀郡に属し、もとは上久我村と一村であった。「慶安郷帳」にのる二筆の久賀村のうち幕府領分が当村にあたるとみられており、これによれば田98石余、畑320石余である。元和6年(1620)には徳川秀忠の寄進により「久加村」の一部が日光神領になった。当村の場合、延宝元年(1673)には日光神領であったことが知られる。以後、日光神領として幕末に至った。宝暦期には朝鮮種人参の栽培がおこなわれている。また村内には荒井川に堰が設けられていたことが窺われ、周辺地域の者を荷主として上久我村から津出しされた材木筏が通過している。寺院は真言宗普門寺、曹洞宗常真寺がある。久我神社は近世期上下久我村の惣鎮守であった。正徳期までは、「久我村鎮守明神」と称しており、享保期に久我大明神と称すようになった。 |