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●塩原町の風景
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◆21年 塩原町(現那須塩原市)の紅葉 024    21.10.19

塩原温泉街 三島通庸紀恩碑
無料駐車場・とて馬車-源三窟前-箒川沿いの風景-温泉街の風景01-温泉街の風景02-箒川紅の吊橋周辺01-箒川紅の吊橋周辺02-
箒川紅の吊橋周辺03-妙雲寺-温泉街の風景02-竜頭の由来-無料駐車場・休憩所-温泉街の風景03-大町桂月歌碑-畑下温泉神社-
八汐大橋周辺-山ゆりの吊橋01-山ゆりの吊橋02-遊園橋周辺-温泉街の風景04-塩湧橋周辺-七ツ岩吊橋周辺01-七ツ岩-
三島通庸紀恩碑
-野立岩周辺01-野立岩周辺02-野立岩周辺03-福渡橋周辺-天皇の間記念公園-七ツ岩吊橋周辺02-
鹿股橋周辺01-鹿股橋周辺02-信夫恕軒の漢詩碑-松根東洋城の碑
■塩原温泉街の風景 国道400号線 七ツ岩近く。
■説明板・・・
●三島通庸紀恩碑
この紀恩碑は、明治17年、栃木県令三島通庸が西那須野から塩原、更に会津に通ずる今の塩原街道を開削し、その功績に感謝するために、明治33年に建てられたものである。塩原は幕末までは、宇都宮藩領で塩原への本道は西廻りと称し、高徳、藤原、新湯を経由したものである。この頃の年間湯治客は6000余人であった。東廻りと称せられる、塩原街道は、関谷より狭小な馬道であり、新道の開削には、渓谷、断崖に阻まれた難所であったが、県令自から監督し橋をかけ、岩を削りその大工事を完成させたのである。
・里程 三島〜古町 19.4キロメートル
・人夫 124,400人
・費用 献夫の外 48,400余円
・工期 5ケ月
この新道の完成により交通は、益々便利になり明治30年頃には、年間湯治客は3万人をこえ、名士の別荘は30余軒に及んだ。明治36年、三島家は、別荘を皇室に献上、これより塩原御用邸として、新御殿も造営し大正天皇は毎夏御愛用されました。現在は、この街道も「塩原バレーライン」として整備され、全国有数の観光温泉郷として発展した。三島通庸は、尾崎紅葉、奥蘭田とともに、塩原発展の三恩人として奉られ、毎年9つき18日には感謝祭が行われる。
塩原町




■碑文説明板・・・
● 故正三位勲二等子爵三島通庸君紀恩碑

吾が大君の知食す国内に山はあれど川はあれど此の塩原の如く雄々しく聳え潔く流るるは稀なり。况や(いわんや)紅葉の美しき温泉の良きあるをや予一たび游びて目驚き二たび遊びて帰るを忘れ遂に亭を構えき。此地固より聞えざりしに非ず然れ共その道たる巉巌峙ち(※ざんがんそばだち:切り立った険しいがけ。高くそびえた岩。岩・山などが,ほかよりひときわ高くそびえる)荊棘(※けいきょく:イバラなど、とげのある低い木。また、そういう木の生えている荒れた土地。)遮り馬すら容易く進まざりき。今や足地を踏まずして到り着く、かかる便利を与えしは誰ぞ。是予が莫逆(※ばくぎゃく:非常に親しい間柄)の友たりし故正三位勲二等子爵三島通庸君なり。君が在りし日予この語を以て君に謝せしに、君は曰へりき。兄等の発起に係る日本鉄道の那須野を過ぐるに非ざりしせば、この便も亦徒ならむと。嗚呼君は謙遜の人なりき。君が修道に功有りしは豈ここに止まらんや東北の諸県に令たるに当り、富国強兵の基は産業に在り、産業を盛にするは道路運搬の便を得るにありとし、拮据十年の間新に開き、旧きを修めし、其長さ者凡三百五十里幅四間より六間に及べり。此の塩原の道路も若松に通ずる国道たらしめむが為に開きし也。且つ橋を架くる百八十、墜道を穿つ十、なかにも彼の万世大路と名を負へる栗子山の墜道は開闢以来の大工事、君ならずして誰かは之を成し得べき。其も猶功を時の内務卿に帰したりき。君は此の謙遜の美徳に富めりしのみならず敬神尊皇の念飽くまで深く、明察果断、比類なき人なりき。君天保六年六月朔日薩摩国鹿児島なる高麗町上の園に生れ、明治二十一年十月二十三日東京八重洲町なる警視総監官舎に薨じぬ。至誠と精励とを以て君が此の間に立たりし赫々たる功業は史家既に詳伝として千載に朽ちざらしめたり。今また贅せず君は玩物衷志の誠を思ひ、心を花月に寄すること無かりしも、この塩原の風景は甚愛すべしとし晩年菟裘の営み有りしを工事を督する中に病に罹られしこそ傷ましけれ。思うに君が英霊は必この地に留まらむ。里人君が徳を慕ひ、胥議りて碑を天狗巌の下に建て銘を余に乞へり。乃一首を詠して之にかふ

 からくして きみがひらきし しほはらの
 やまちはたえじ よろずよまてに

明治33年3月21日
枢密顧問官兼御歌所長正三位勲一等 男爵 高崎正風撰文
華族女学校教授御歌所寄人正七位 阪 正臣書写
元帥陸軍大将大勲位功二級 彰仁親王題額