↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
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↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
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↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
↓上三依水生植物園内から男鹿川 |
↓上三依水生植物園内 |
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↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
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↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
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↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
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↓上三依水生植物園内 熊野堂親抱きの松跡 |
↓上三依水生植物園内 熊野堂親抱きの松跡 |
↓上三依水生植物園内 エゾミソハギ |
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■説明板・・・
●熊野堂親抱きの松(上三依)跡
今を去る約500年前、戦国時代の頃、戦いに出て行方不明となった夫を訪ねて旅をしていた女性がありました。
長い旅の途中上三依の里、熊野堂(※熊野堂は地名です)でついに疲れ果てて、熊野宮にしばらく身を寄せ疲れをいやしておりましたが、悲しいことにそれもつかの間、ほどなく病死してしまいました。その女性には郷里に残した一人の娘があったのです。この娘は夫を訪ねて旅をする母同様に母をさがしもとめて旅をしていたのです。
何と悲しい宿命の母娘でしょう。やっと上三依のこの里で、すでに母が亡くなっていたことを知り、悲しみのうちに里人が手厚く葬った墓所を訪ね、塚の上の里人が植えた松の木を母にすがり抱きつくようにして、さめざめと泣き悲しみました。深く胸をうたれた里人は墓所の傍らに小屋を建てて与えました。
娘はその後悲嘆のうちにも、里人の温かな心尽しに守られながら供養の日々を送っておりましたが、あまりの悲しみにだんだん食も通らず、身を細らせてついに母のあとを追うように死んでしまいました。里人は娘の心を思いやり親松の傍らに子松を植えてやりました。
やがてこの二本の松は年を経るごとにすくすくと伸びて、子松は親松の幹にすがるようにからみつき、いつとはなく里人は子が親に抱きついているのだと話すようになりました。
そしてその深い情を思いやり、この頃から、この里には、ひとしお年寄りや親をいたわる気風が高まりました。
後年、旅の途中この里を訪ねた法師某は「村風淳にして情こもれり」と、村風の良いわけを尋ね、この松の話しを聞き、歌を詠んでいます。
心なき人に見せばや下野の 三依の里の親抱きの松
(注、人によっては三依の里を熊野の里とも伝える)
また、会津侯保科正之も参勤交代の途中横川本陣に泊り、この話を聞き、
みどり子の親を忘れぬ誠ぞと しるしを見せる親抱きの松
と詠んでいます。
昭和61年3月 藤原町 |
↓上三依水生植物園内 エゾミソハギ |
↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
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↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
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↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 |
↓上三依水生植物園内 日本庭園エリア |
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