■説明板・・・
●小塙陣屋跡(こばなじんやあと)
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いに際し、大田原増清(ますきよ)は、上杉景勝(かげかつ)軍の南下に備えるため徳川家康が派遣した諸将(服部半蔵・皆川広照(ひろてる)の指揮下に属し、兄晴清(はるきよ)とともに大田原城の防衛に当たりました。
戦後、論功行賞(ろんこうこうしょう)により森田郷(もりたごう)及び田野倉(たのくら)村・深作村(ふかさくむら)など本市内において千石の領地を拝領し、慶長7年(1602)には、芳賀郡内で500石の加増を受け、都合1500石を領する知行所が成立しました。森田領主となった増清は、那須一族の森田氏が築いた森田城には入らず、本家大田原氏より小塙村地内を石高25石で永代借地し、この地に陣屋を築き森田大田原氏の祖となりました。以後、10代にわたり交代寄合旗本(こうたいよりあいはたもと)として明治まで存続しました。
陣屋は、東西162間、南北20間、面積5町1反歩と比較的大きな規模を持っています。荒川の河岸段丘を背に南を向いて築かれ、大手口を入ると正面に政庁があったものと思われます。周囲は土塁(どるい)で囲まれ、東側は一段低くなり、東から南には水堀が掘られていました。西側には二重の塁濠(るいごう)で守られた区画があり、倉庫などの重要施設があったと考えられます。現在、陣屋地内には東の堀跡と西側の土塁が遺構として残るのみですが、陣屋南東にある森田宿通りは、武家屋敷の面影が今でも感じられます。
那須烏山市教育委員会 |