■説明板・・・
●大田原城跡 昭和36年12月8日指定
天文14年(1545)大田原資清によって築城され、町島水口(大田原市の一地名です)より移り住み、以来明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城である。東西210m、南北327m、面積9.1ha、本丸、二の丸、三の丸に区画され、この外、北・西両曲輪・馬場・作事場等築城法にかなった防御を第一とした要塞の地である。
明治5年(1872)に兵部省に引渡され、取り壊された。
慶長5年(1600)徳川家康は関ケ原合戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視し城の補修を命じ、更に徳川三代将軍家光は、寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州の鎮護とた。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同元年新たに造営した。戊辰の役には西軍の軍事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬがれた。
明治19年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和12年(1937)嗣子千冬(司法大臣)これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩いの場所となっている。 |