■説明板・・・
●黒羽城の由来
黒羽城は天正4年、大関高増新たに築いて余瀬の白旗城より移った。北(玄武)に高山の丘陵連り、東(青竜せいりょう)に流水の前田川走り、南(朱雀)にくぼ地の阿久津村あり(田町と称す)西(白虎)に那珂川を隔てて大道の石井沢村通じて(向町と称す)、四神相応の地相を占めた城造りで本高1万8千石であった。
其の後慶長5年、嗣子資増の代、會津の上杉景勝が徳川家康に叛いたので、家康はそれに備える為、臣下を黒羽城に遣し資増に命じて更に修築させ且つ鉄砲を給与した。築城と共に余瀬から寺院大雄寺、帰一寺、新善光寺が移転した。明治4年廃藩置県となるまで295年間大関氏累代の居城であった。
幕末に当り肥後守増裕は出仕して陸海軍奉行の重職を奉じ勝海舟と並びて偉名を天下にとどろかせた。且つ、ひそかに開国勤皇の志を抱いて深く謀る所があったが不幸慶応3年卆去した。行年31。大正7年、朝廷、増裕生前の功を賞して正四位を贈られた。
昭和40年10月 黒羽町観光協会
※中国の神話。四神(ししん)東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武である。 |