■説明板・・・
●遊行柳と芦野の里
芦野の名は、鎌倉幕府の吾妻鏡建長8年(1256)の記事に登場する葦野地頭の存在が文献上の初見である。
そして南北朝時代には那須余一宗隆七世の孫・資忠の子資方(資宗とも)が芦野氏を嗣ぎ那須氏系芦野氏となった。戦国の世においては、宇都宮氏や佐竹氏、結城氏などとの戦いには、那須氏の羽翼として参陣した記録が残っている。
世にいう那須七騎の一家で、江戸時代になると芦野をはじめその近隣(上の庄)や下の庄(芳賀郡)など3016石の交代寄合旗本として明治の廃藩置県まで続いた。
江戸時代には奥州街道の宿駅として、芦野氏の城下町として繁栄した芦野も明治になると陸羽街道(国道4号)の整備や鉄道の開通により、交通・経済の中心は黒田原駅や国道4号へと移っていった。
遊行柳は朽木の柳、清水ながるるの柳ともいわれ、西行法師が歌を詠んだ地として、また文明3年(1481)に時宗の尊酷上人がこの地を訪れた際、老翁の姿となった柳の精へ仏徳を授け成仏させた話は、やがて謡曲となり広く知られるところとなった。遊行とは、全国を行脚する僧のことで、時宗では最高位の僧を遊行上人という。遊行柳は時宗との関わりからの呼称である。
元禄2年(1689)4月20日、この地を訪れた芭蕉の奥の細道紀行によって世に歌枕の地として知られるようになり、この地を訪れた文人たちが詠んだ作品が数多く残されている。 |