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●足利市の風景 現 栃木県足利市 |
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浄因寺駐車場〜浄因寺1 19.11.20 栃木県指定名勝 |
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月谷町風景001/月谷町風景002/月谷町風景003/月谷町風景004/月谷町風景005/月谷町風景006/月谷町風景007/月谷町風景008/月谷町風景009/示現神社 月谷町/示現神社神代神楽/示現神社左右大臣像/薬師堂 月谷町/地蔵尊 月谷町/神社 月谷町/菅沢浮石弁才天/浄因寺入口〜駐車場/浄因寺駐車場から浄因寺01/浄因寺駐車場から浄因寺02/景勝地 浄因寺/庚申塔群 月谷町/隆興寺/ |
■説明板・・・
●ポックリ(放苦離)信仰とは
庶民の間でポックリさまと呼ばれ当時の人々が飢饉苛酷な年貢、貧困、病、老い等の苦しさから逃れたいとの願った民間信仰の一つで、今からおよそ300年前(江戸中期後半)に始まりました。放苦離とは、苦しみを放し離れて長寿と安楽死を祈ることです。本来はお伊勢詣り、お大師さま詣で観音霊場巡礼と日本各地の神社、仏閣をお詣りし、長寿と安楽死極楽浄土行きを祈願したのですが、当地の放苦離信仰は和銅6年(713-約1200余年前)、行基菩薩によって開かれた聖域の地、行道山の一角に、当時(宝暦年間:約240余年前)の篤信者が日本各地の神社、仏閣を石刻した像を寄進し、全国を巡礼せずに、この地で詣でることにより、祈願成就できるように、おまつりしたのです。
例祭は、4月8日に行道山で行われる山門大施餓鬼会(厄除け一杯めし)の例祭に因み同日に併せて行われていたようです。現代の社会情勢、呆け老人の問題、情報過多など混雑化するなかで、夢と心の安らぎを、と地域の人々の努力により昭和60年(1985)に石像の発掘、調査を行ってきました。参拝者の心の安らぎ、長寿と極楽浄土、併せて史跡の保存を願っております。
阿云ノ会(あうんのかい)※阿吽(あうん) |
■説明板・・・
●足利県立自然公園
県立自然公園区域において、次の行為等を行う場合には、特別地域内では許可、普通地域内では届出がひつようです。くわしいことは市町村役場、県林務事務所へ御相談ください。
▲工作物の新築、改築、増築▲工作物の色彩変更▲広告物の掲示、設置▲鉱物の掘採、土石の採取▲土地の形状変更▲木竹の伐採(普通地域を除く)
栃木県 |
■説明板・・・
●行道山浄因寺
この寺は、和銅6年(713)行基の草創と伝えられ初めは真言宗で奉仕され、山岳信仰の霊場として栄え関東の高野山と称された。境内には奇岩、怪石が多く堂宇は本堂、庫裏、清心亭などがあり、あたりを囲む老樹や荒々しい岩肌と調和して風情がある。 |
■説明板・・・
行ってみたい 歩いてみたい 日本の百か所 遊歩百選
NO21 栃木県 足利市・自然公園と三名所
この県立自然公園ハイキングコース(歴史のまちを望むみち)は関東の高野山と呼ばれ、南画さながらの景勝地として栃木県の名勝第1号に指定されている行道山浄因寺を出発点とし、足利市街地を見下ろしながら尾根沿いに織姫神社まで歩く初心者や家族連れも楽しめるコースとなっています。市街地では、日本最古の総合大学といわれる「足利学校」や足利氏ゆかりの寺である「ばんな寺」、栗田英男記念館などを巡ることが出来ます。また郊外まで少し足を運んで、大藤で有名な花の楽園「あしかがフラワーパーク」や伊万里焼・鍋島焼を所蔵する「栗田美術館」をご覧になってはいかがでしょうか。 |
■説明板・・・
●関東ふれあいの道
▲歴史のまちを望むみち ▲山なみのみち
現在地(行道山浄因寺:ぎょうどうさんじょういんじ)は、2つのコースの境にあたります。
歴史のまちを望むみちを行くと、悪口祭り(あくたいまつり)で有名な大岩毘沙門天(おおいわびしゃもんてん)、両崖山(りょうがいさん:山頂には藤原成行が建城した足利城跡)、織姫神社、足利学校を通り足利駅に至ります。
現在地⇒大岩毘沙門天⇒両崖山⇒織姫神社⇒足利駅(全長9.0km)
山なみのみちを行くと、眺望のすばらしい山なみを尾根伝いに登り下りし、馬打峠(うまうちとうげ)や藤坂峠(ふじさかとうげ)などを越えて名草上町(名草巨石群で有名な厳島神社)に至ります。
現在地⇒馬打峠⇒藤坂峠⇒名草上町⇒名草巨石群(全長8.5km)
栃木県
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■説明板・・・
●行道山浄因寺
行道山浄因寺は、市街地北部の断崖絶壁に囲まれた小盆地にあり、関東の高野山の別名をもって知られている。和銅6年(713)、行基菩薩の開山といわれ、山岳信仰の霊場として栄えた。境内には奇岩、怪石が多く、奥ノ院の寝釈迦は数個の石仏に囲まれている。4月上旬に行われる「厄除け一杯めし」の行事は、参詣者に一杯ずつ御飯をふるまう行事であるが、これを食べると、厄除け、開運の御利益があるという。紅葉の時期も素晴らしい。
環境庁・栃木県 |
■説明板・・・
●栃木県指定 名勝 行道山浄因寺
行道山は今から約1200年前、和銅年間に行基上人により開かれたと伝えられる。その後、法徳禅師が禅寺とし、室町時代には学問の道場として修行僧が多く集い、関東の高野山と呼ばれた。元和9年(1623)には雷火のため堂塔が焼失したが、幕府から寺領20石の朱印をうけ、往時の寺勢をもりかえした。当時のおもかげは、木版刷の文献などによってうかがい知ることができる。山頂に近い「奥の院」には寝釈迦(石仏)を中心に多くの石仏(49院)や石塔が周囲をとりまいている。ここは行基上人が分骨入定された聖地である。
昭和60年9月 ・財団法人 足利市民文化財団 ・足利市教育委員会 |
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