■説明板・・・
樺崎八幡宮
足利義兼(よしかね)は、晩年鑁阿(ばんな)と号し建久年間生母菩提のため、理人上人(りしんしょうにん)を開山として法界寺を創建しました。法界寺は鑁阿寺を壇上とした奥院で、義兼自身もここに住み念仏三昧し、正治元年に当地で入寂(にゅうじゃく)しました。樺崎八幡宮は、義兼の入定(にゅうじょう)後、子の義氏(よしうじ)によって八幡神を合祀(ごうし)したことに由来します。法界寺は、明治以降廃寺となりましたが、この地は樺崎八幡宮を含めて、足利源氏関係の遺跡として極めて貴重なものです。
環境庁・栃木県
■説明板・・・
建造物 樺崎八幡宮本殿
●桁行(けたゆき)二間 ●梁間(はりま)二間 ●両側面は高欄付縁張(こうらんつきえんばり) ●銅板葺 ●江戸時代樺崎八幡宮は、正治元年(1199)、足利義兼の生入定の地に八幡神(はちまんじん)を勧請し、義兼の霊を合祀したことに由来する。本殿は、天和年間(1681-1684)の再建といわれ、昭和63年度・平成元年度の保存修理で、本来の造りであった隅木入春日造(軒唐破風)(すみきいりかすがづくり・のきからはふう)に復元した。この建物は、意匠上においても種々の面で卓越したものがあり、歴史的由来とあわせて価値の高い建造物である。(昭和61年9月24日 足利市指定)※足利義兼は、奥州藤原氏征伐の後、建久年間)1190-1199)、この地に下御堂(しもみどう:法界寺)を創建した。義兼は正治元年、当地にて入寂、その子義氏は、法界寺の諸堂宇を整備するとともに八幡神を勧請した。足利将軍家の衰退とともに法界寺もその庇護するところを失い、現在では樺崎八幡宮を残すのみである。
平成2年3月
財団法人足利市民文化財団 足利市教育委員会 |