■説明板・・・
●唐沢山神社(からさわやまじんじゃ)
当神社は御祭神秀郷公により平安時代中頃に築城された本丸跡に建てられております。「むかで退治」の伝説や「天慶(てんぎょう)の乱」の鎮定等から武勇に勝れていたことが知られています。又この乱の鎮定の功により鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任ぜられました。その後700年の間多少の変遷はありましたが、江戸時代初期の山城禁止令により廃城となりました。明治16年一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐沢山神社を建てました。
環境省・栃木県
●藤原秀郷公墳墓 |
■ふるさと佐野100選
●唐沢山
藤原秀郷一千年の昔の山城跡で、全山赤松におおわれている。山頂には唐沢山神社があり、春は桜・つつじ・新緑、夏は納涼・ぶどう狩り、秋は松茸狩り、冬は雪景色といつきても自然と味覚が楽しめる展望が良く、晴れた日は副都心新宿の高層ビル群が眺望できる。 |
■説明板・・・
●史蹟「唐沢山城」沿革
唐沢山城は、佐野市の北、高さ240mの山全体をいい、往時の広さ550町歩と言われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰富士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。当社御祭神、秀郷公により1000年前の延長(えんちょう)年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶(てんぎょう)の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府(ちんじゅふ)将軍として、関東はもとより奥州方面にまで、威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東7名城(※■唐沢城(山城)■金山城(太田市 山城)■前橋城(厩橋城 平城)■行田城(忍城 平城)■川越城(平城)■宇都宮城(平城)■佐竹城(常陸太田市 山城)の一つの数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換(しろがえ)となって唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され、四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。
唐沢山神社
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■説明板・・・
●唐沢山神社由緒 祭神 藤原秀郷公(田原藤太秀郷) 神階 贈正二位 元別格官幣社(※神社の格)
秀郷公は天児屋根命(※あめのこやねのみこと)は、日本神話に登場する神)22世の孫藤原鎌足を祖とし、数代を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け、幼小の頃近江国(今の滋賀県)と山城国(京都府)の境にある宇治の田原という所に住んで弓馬の器量優れ、人々より田原藤太と慕われた。その頃近江には三上山に大むかでが出没し人々を苦しめている事を聞き、得意の弓術にてこれを打つ。琵琶湖の神、龍王はこの功を賞賛し、公はこの時神縁を受く。時の朝廷よりは従五位下の叙せられ下野国押領使(しもつけのくにおうりょうし)に補される。延長5年4月(927)よって居城を唐沢山に築く。第61代朱雀天皇の御代天慶2年12月(940)平将門下野を始め関東各地を侵略す。公、平貞盛と共に下総国幸島の北に迎撃し将門を滅ぼす。時に天慶3年2月14日(世に之を天慶の乱という。)朝廷其の(その)功を賞し従四位に叙し、武蔵・下野両国守に任じ鎮守府将軍とす。以来670年間子孫善政をしいたが慶長7年(1602)30代佐野信吉公の時廃城となった。明治16年8月6日特旨(※特別の考え。特に、君主のおぼしめし。〈和英語林集成〉)以て正三位を追贈されるに後裔一族旧臣等、公の御遺徳を偲ぶ人々により、明治16年9月に本殿及び拝殿を創建し御鎮座申し上げた。更に明治23年11月29日別格官幣社に列せらる。大正7年11月18日特旨を以て贈二位とされる。 |
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