■説明板・・・
●當山沿革
當山は大澤山虎溪院圓通寺と號し應永9年浄土宗鎮西流名越派の第五祖良栄理本上人によって開創され、第10世中興良迦上人の代、天正2年6月26日には正親町天皇の勅願所(ちょくがんじょ:勅命による祈願、勅願により、国家鎮護などを祈願した神社や寺院)に補せられた大澤流の総本山であります。 徃昔(おうせき:過ぎ去った昔。いにしえ。)は境内8万坪あり、末寺508箇寺を全国に掩有(=奄有(えんゆう):おおうように、残らず自分のものにすること)し結構壮麗な七堂伽藍の間には金澤文庫や足利学校と並び称せらる大澤文庫があって学寮38棟が林立し常に学徒が雲集研覈(うんしゅうけんかく?:雲のように多数の人が集まり、研究し調べるの意味?)して盛観(せいかん:意味や解説。りっぱで盛大な見もの。)を謳はれた。然るに明治5年6月不慮の祝融(しゅくゆう:中国神話の火の神。火事のこと?)氏に見舞われ全山焼土と化してからは寺運頓に(とみに?)衰退して一時は廃寺の危殆(きたい:あやういこと。非常にあぶないこと。また、そのさま。)に瀕したが、先代良持彦立上人代より再び恢興(かいこう:大きく興したの意味)の気運をむかえて今日に至っております。
昭和36年12月8日
※読めない文字がありましたので、ちょっとしらべてみましたが、わからないところがいくつかありました。 |