●説明板 1
安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、下野国には薬師寺が存在するところから安国寺を建てることなく、そのまま安国寺を寺名改称したと伝えられている。
当時はまだ下野薬師寺の伽藍配置が姿を留めていたと考えられるが、元亀元年(1570)に北条氏政の兵火により大半が焼失したと伝えられている。
現在は真言宗の寺院で薬師如来を本尊とする。その境内は、七世紀後半に創建された日本戒壇の一つとして知られる史跡下野薬師寺跡の中枢部に位置しており、白鳳文化の香りを現在に伝えている。
現在の本堂は明治38年に再建されたもので、近世以前の建物は六角堂と山門の一部を残すのみである。
南河内町教育委員会
●説明板 2
下野薬師寺伽藍礎石(しもつけやくしじがらんそせき)南河内町指定有形文化財
この礎石は民家のひとが東塔跡(とうとうあと)付近から掘り出されたものと言われており、どの堂塔(どうとう)の礎石かあきらかではありません。礎石面の中心に見られる円形状の穴は、ほぞ穴で柱根に出ほぞを造り、ここにはめ込んであったものと推定されます。凝灰岩製とみられるこの形式の礎石は、白鳳時代に盛行したものといわれています。
隆盛期の下野薬師寺の壮大な伽藍も現今ではわずかに礎石と古瓦などが残っているだけで、往時を再現する手がかりとして貴重な資料の一つにもなっています。
南河内町教育委員会
●説明板 3
安国寺 国指定史跡 下野薬師寺跡 大正10年3月3日指定
・指定理由
社寺の跡及び祭礼信仰に関する史跡として重要なものである
・説明
下野薬師寺は天武天皇の勅願によって建立されたと伝えられる。所伝は別にしても出土古瓦からみて白鳳期の創建はほぼ事実とみられる。天平宝字5年(761)大和東大寺筑紫観世音と共に、この下野薬師寺に僧尼に対し戒律を授ける戒壇が設けられ日本三戒壇の一つとして東国随一の寺格を誇った往時、南都七大寺に比肩すると称せられた。大伽藍はすべて烏有に帰し、いまいま目の当たり見ることはできないが安国寺を中心とする附近一帯にはなお当時の土壇が遺存し盛時の面影を残している。
●説明板 4
下野薬師寺跡
仏教は奈良初期(710年頃)になって地方にも広まり、この寺もその頃建てられ7つのお堂がならび、たくさんのお坊さんが集まり修行しました。道鏡がここに左遷されたのも有名なことです。この寺は、東西245m、南北343mにおよぶものでしたが、土塁跡など一部に、昔のおもかげがしのばれます。国の史跡に指定されています。
四つの案内板でした。 |