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●宇都宮市の風景   栃木県宇都宮市

宇都宮貞綱公像 興禅寺
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■興禅寺門前の説明板・・・
●宇都宮貞綱(さだつな)・公綱(きんつな)の墓
境内に、宇都宮貞綱・公綱の墓といわれている五輪塔がある。宇都宮貞綱(1264-1316)は8代宇都宮城主で、弘安(こうあん)4年、元軍(げんぐん)の襲来のとき、16歳で大将軍として九州に出陣した。晩年に出家して法名を「蓮昇(れんしょう)」、法号を「興禅寺(こうぜんじ)」といった。寺の名はこの法号によるものである。宇都宮公綱(1302-1356)は貞綱の二男で9代城主となり、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて活躍した武将である。大坂四天王寺に陣を構えた楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。
■益子町綱神社入口の説明板・・・益子町の綱神社
●貞綱公頌徳碑(さだつなこうしょうとくひ)
宇都宮八代城主貞綱公は、従五位上 下野守兼三河守、備後守検行引付衆で、文武両道に秀れ且つ智略に富む武将にして、弘安4年(1281)蒙古の元のフビライが数十万の兵を率いて九州に来冠した時、歳16才にして北条時宗の命を受けて総大将となり、諸国の兵5万を集めて九州博多に向かった。この時既に伊勢神風(暴風)吹き荒れて、元の兵船皆滅して一人の還るものがなかった。深慮ある貞綱公は、師をかえさず益々武備を固め、再びかかる災の起らぬようにと博多海岸に石塁を築いて防備に当たったので、元も二度と我国の周辺に伺うことはなかった。その石塁は今なお博多海岸に延々と存続し、貞綱公の遺徳永遠に伝えられている。明治28年(1895)10月、宇都宮家の旧家臣相図って、貞綱公の偉大なる功績を永久に顕彰し、崇敬標示たらしめんとして、撰文を帝国大学教授内藤氏に、篆額を前神祇官事務総督白川資訓氏に、書蹟は前多古藩知事久松勝慈氏に依頼して、地元は勿論岩瀬、笠間、水戸、日立周辺まで、宇都宮家と縁故者をたどり浄財を募って、この頌徳碑を建立するに至った。これに応じた者1047名、裏面にその芳名が刻記されている。石材は仙台石を用い、台石は大羽川豆田にあった巨石を運んだものである。碑面の高さ3.53m、幅1.8m、台石の高さ1mである。
昭和53年5月31日
上大羽文化財保存会
※石塁・・・元寇防塁1933年国指定史跡になる。
宇都宮貞綱公開基の興禅寺(開基・・・仏寺創建の際、財政的支持を行う世俗の人。特に禅宗で、開山と区別していう。
宇都宮市清巌寺の鉄塔婆の説明板・・・
鉄塔婆 清巌寺