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●宇都宮市の風景 栃木県宇都宮市 |
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清巌寺 浄土宗 |
指定文化財表示板のあるところ(H11宇都宮の軌跡 宇都宮市教育委員会発行 冊子)
二荒山神社・・・延命院・・・慈光寺・・・清巌寺・・・宝蔵寺・・・一向寺・・・興禅寺・・・屋台(伝馬町)・・・善願寺・・・旧篠原家住宅
高久靄克R人碑・・・御蔵山古墳・・・樋爪氏の墓・・・贈従三位 戸田忠恕の碑・・・戸田氏の墓所(英巌寺跡・・・英巌寺のイヌツゲ
・・・桂林寺・・・真福寺・・・祥雲寺の桜405・・・八幡山のクスノキ・・・予備・・・松が峰教会・・・蒲生君平勅旌碑・・・菊地愛山の墓 |
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18.4.28 |
■宇都宮五代城主頼綱と芳賀高照・高継の墓所
説明板 宇都宮五代城主頼綱(よりつな)と芳賀高照・高継の墓所 この頼綱が「小倉百人一首」の生みの親だったことを知る人は少ない。 鎌倉幕府の幕臣だった頼綱が27才(西暦1208年)政争に巻き込まれるのを避けて出家、法然上人の門に入り、法号を実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と名乗った。
蓮生は和歌にすぐれ、京都二尊院(にそんいん)近くの小倉山麓に山荘を構え当代一流の文化人といわれた藤原定家(ふじわら
の
さだいえ)と姻戚関係を結んだ。これが縁で嘉禎(かてい)元年(1235)蓮生は山荘の障子に貼る色紙の執筆を定家に依頼、定家が色紙一枚、一枚に天智天皇(※大化の改新を行った中大兄皇子 なかのおおえのおうじ で知られる。
)以来の秀作を一首づつ書いた。これが「小倉百人一首」の原型となり、その後、鳥羽(とば)、順徳(じゅんとく)両天皇の作品を加えて、補訂してまとめた和歌集が小倉百人一首です。
蓮生の歌は「新勅撰(※新勅撰和歌集:しんちょくせんわかしゅう)」「続古今(※続古今和歌集:しょくこきんわかしゅう」「続拾遺(※続拾遺和歌集:しょくしゅういわかしゅう」などの和歌集に収められている。多くの歌人、武将が生まれたのも蓮生の大きな功績です。建保3年(1215)蓮生は、後の清巌寺となる念仏堂を宿郷村に草創した。此々(ここ)にある蓮生法師の墓碑の両脇に並んでいる墓は一族だった芳賀高照(兄)と高継(弟)の墓です。
※読めないので補足してあります。 |
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■説明板・・・
●国指定重要文化財 鉄塔婆(てつとうば)
明治44年8月9日指定 高さ3.3m 幅0.3m
この鉄塔婆は、鎌倉時代の正和(しょうわ)元年(1312)の八月に、宇都宮八代城主貞綱が亡き母の十三回忌の供養のために建立したといわれる。塔婆の上部には阿弥陀を表す梵字(ぼんじ)と阿弥陀三尊の浮彫りがあり下部には90字の願文がある。我が国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから当時の宇都宮氏の政治、経済的な力ばかりでなく文化的・宗教的な水準の高さを示している貴重な資料である。
宇都宮市教育委員会(昭和63年3月建) |
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■説明板・・・
●子育地蔵尊
この子育地蔵尊は正徳4年9月(1714)清厳寺代九世教円が衆生救済のため創建した古い地蔵尊です。300年近い歴史をもつ青銅製、丈六座像の地蔵尊であまり類が無いという。昭和19年12月6日の戦争末期、供出されてから大谷石の台座だけが残っていました。51年振りに檀家の熱意で平成7年12月6日創建当初そのままの尊容を復元しましたが、奇しくもお姿をお隠しになられた月日と偶然にも重なり誠にお地蔵さまの不思議な念力を感じます。お地蔵さまは救いの菩薩さまです。悩み、苦しむ人を救うのがお地蔵さまの誓いです。信仰すると十種のご利益が得られ、地獄に落ちても救ってくれる大慈悲のほとけさまです。 |
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■説明板・・・
●稚児の樹 ヒイラギ
昔、二荒神社例祭3月15日の「花の会」に宇都宮家の郎党の子等5人により舞いを舞う習わしがあった。ある時、宇都宮家の郎党の子等の中から選ばれた稚児達が舞いを楽しんでいると、何方ともなく、一陣の土風が吹き上がり、突然、天狗が現われて稚児一人を見物衆の眼にも止まらぬ早業で誘引した。しばらくして稚児は白沢(現在の岡本地区)のほとりで発見されたが、すでに息絶えていた。今でもその地を「児が坂」と呼ぶ。それを悲しんだ人々により、その後、この清厳寺にこの柊(ヒイラギ)を墓標として植え供養した。それからは例年「花の会」の稚児舞いは4人で舞うようになった。 |
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