「わが町の史跡を訪ねて」
●壬生家・鳥居家の菩提所
壬生城址の北にあり、曹洞宗に属し向陽山常楽寺といいます。壬生氏初代の胤業はあつく禅門に帰依し密宗の梵宮を改めて七堂伽藍を興しました。胤業は法号を常楽寺殿亀雲道鑑大居士といいます。寺の西の墓地には壬生家歴代の墓(町指定史跡)があります。また同寺は江戸時代にあっては、鳥居家の保護もあつく鳥居家累代の墓(町指定史跡)もあります。
山門をくぐって右側には尾形乾山(尾形光琳の弟)の碑があり「ふくろ鳴く壬生のうら山時雨きて、みのきるむれの立ち騒ぐ見ゆ」と刻まれています。
●斎藤玄昌(さいとうげんしょう)の墓
玄昌は文化6年(1809)2月、梁田郡羽苅村に生まれました。名は知柔、通称は玄昌、号は一瓢。蘭医学を修め、天保5年(1834)に壬生鳥居家に藩医として仕えました。天保11年(1840)12月に石崎正達らと壬生上河岸の刑場で処刑囚の解剖(「解体正図」刊)を行い、嘉永3年(1850)2月には藩に請願し壬生領内に、強制種痘を行いました。晩年は、人材育成のため私立学校の経営を企画しましたが、それを果たさぬまま明治5年(1872)5月に64歳でなくなりました。 |