御殿山公園の桜 27.4.6
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鹿沼市今宮町22.4.14
29.4.10
鹿沼市今宮町の御殿山公園です。グランドを囲むように大きな桜がたくさんあります。桜の時期に映画のロケを行っているのを見たことがあります。
鹿沼城の説明板は・・・
名勝史蹟 鹿沼古城跡
本城跡は天文元年、壬生下総守綱房の築くところにして近世城郭の先駆をなすものである。
本丸、二の丸、三の丸を備え、濠を二重、三重にめぐらし外に出丸を設け総面積数万坪に及ぶ、天正18年時の城主上総介義雄、北条氏に味方したるため豊臣秀吉によって当城の破却を命ぜられ鹿沼城築城以来57年にして壬生氏はついに滅亡せり、近年本丸、二、三の丸を地ならしして総合グランドとなし市民の運動競技場とした。
昭和42年3月16日  鹿沼市・鹿沼ロータリークラブ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鹿沼藩(かぬまはん)は、下野国都賀郡鹿沼(現在の栃木県鹿沼市坂田山)に存在した藩。
[編集] 藩史
正保4年(1647年)、小姓組番頭であった朽木稙綱は、鹿沼において5000石を加増され、2万5000石の大名として鹿沼藩を立藩した。しかし慶安2年(1649年)に稙綱は常陸土浦藩に移され、代わって相模国・下総国・常陸国などで1万石を領していた内田正信が5000石加増の1万5000石で入った。正信は慶安4年(1651年)の徳川家光の死去に伴って殉死したが、後を内田正衆が継いだ。正衆が元禄12年(1699年)2月4日に死去した後は内田正偏が継いだ。正偏は享保9年(1724年)10月29日、狂気により妻女を傷つけた罪を咎められて蟄居処分となった。(伝承で、江戸で見初めた町人の妻を鹿沼に連れて帰り、其れを追って尋ねてきた父子を無礼と下の者に斬り捨てさせ、其れから狂気に走るようになった。という言い伝えがある。)家督は長男の内田正親が継ぎ、1万石に減封の上で下総小見川藩に移され、ここに鹿沼藩は廃藩となった。
さつき地蔵