とちぎの 道と川百選 ●ホーム ●一覧へ戻る 黒磯市(那須塩原市)

0101 那須塩原市(旧黒磯)・那須町     会津中街道と那珂川源流      25.4.19
前へ・・・県南 金崎地先の思川 (西方)82・・・太平山遊覧道路(栃木)83・・・幸来橋周辺の巴波川 (栃木)84・・・皆川中学校周辺の藤川 (栃木)85・・・古城公園と姿川 (国分寺 箕輪城あたり86・・・ゆうがおどおり (南河内)87・・・須賀神社参道 (小山)88・・・観晃橋周辺の思川 (小山)89・・・日立周辺の桜並木 (大平)90・・・岩船山参道 (岩舟)91・・・渡良瀬遊水地 (小山・藤岡・野木)92・・・河川緑地と秋山川 (佐野)93・・・佐野田沼産業道路 (佐野・田沼)94・・・渡良瀬川自転車道 (足利・佐野・藤岡)26.3.2895・・・ばん阿寺足利学校周辺の石畳の道96 ・・・足利大通り97・・・河川緑地と渡良瀬川 (足利)27.3.2498・・・三滝周辺の大戸川 (田沼 蓬莱山)99・・・秋山川の源流 (葛生)100・・・会津中街道と那珂川源流 (那須・黒磯)101
とちぎの「道と川百選」の標柱不明。栃木県の会津中街道に関係する手持ち写真はこれくらいしかありません。
■説明板・・・
●会津中街道一里塚(あいづなかかいどういちりづか)

会津中街道は、1695年(元禄8年)に自然災害で通れなくなった会津西街道にかわる道としてつくられました。全長は約128kmで、福島県の会津若松から県境の大峠(おおとうげ)・三斗小屋・板室(いたむろ)、そしてこの地の横林を経て、矢板・氏家の阿久津河岸に至っています。会津藩の廻米(江戸などに運ばれる米)輸送等に使われた道で、会津街道、会津東街道、会津北街道などとも呼ばれ、横林宿には物資の中継ぎなどを行う問屋が置かれていました。一里塚は、江戸時代に一里(約4km)ごとに街道の両側に築かれた塚で、その上にエノキやマツなどが植えられました。旅人の目安であり、休息の場でもあったようです。横林の一里塚は地域の農村景観を形づくる貴重な文化遺産であり、江戸時代の廻米輸送の歴史を物語っています。

●会津西街道・・・
会津藩の廻米輸送は、会津中街道がつくられる前は会津西街道やその他の道を利用していました。ところが会津西街道は1683年(天和3年)の日光大地震によって葛老山(かつろうやま)崩れ、川をせき止めてできた五十里湖によって通行出来なくなりました。
●五十里湖・・・
五十里湖は、江戸日本橋から50里の距離にあることから呼ばれたといわれ、1723年(享保8年)に大雨で決壊します。五十里ダム建設後にできたダム湖も五十里湖と呼ばれています。
■説明板・・・
●高林の一里塚

一里塚は、江戸時代の初期に全国の主要道路の両側に江戸日本橋を基点として、一里毎に塚を築き旅する人々のために便宜を与えた道路の附属施設の一つであり、この一里塚は会津中街道に築かれた一里塚の一つである。江戸から幾つ目の一里塚で、この地が何里目であったかは明らかでない。一里塚の起因は中国にあり、我が国では安土桃山時代に織田信長が領国に土喉(?)を築かせたのが初めといわれている。安土桃山時代においては一里の距離が一定でなかった。豊臣秀吉が天下を統一すると、一里は三十六丁(約3.92キロメートル)と定められ、徳川幕府もこれを用い、家康は慶長9年2月全国の諸大名に命じて、全国の主要道路に一里塚を築かせ、幕府領は代官、私領は各大名に築かせたものである。この一里塚は、高林の集落内に築かれたため、他の一里塚に比較して小規模であったのではないかと思われる。周囲は大部分崩壊し現在は約二間(約3.6メートル)・高さ約五尺(約1.5メートル)程度であり、中央に欅かと思われる大木の切株がある。東側の塚は石蔵建築のために整地されその形跡もない。
黒磯市教育委員会(現那須塩原市)
↓那須塩原市横林 会津中街道一里塚  県道259号折戸西那須線
↓19.10.5 那須塩原市 高林の一里塚 県道53号大田原高林線の南側の道路
↓21.10.22 那須塩原市 那珂川源流付近 深山ダム