・・・・・馬頭(那珂川町)の風景・・・・・
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 馬頭(那珂川町)  23.11.30
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乾徳寺 19
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■乾徳寺の由来
●大渓院 瀧沢山 乾徳寺と称す
大本山は福井県永平寺 横浜市総持寺
武茂城跡は山門に向かって左側の山一帯と右側の山一帯の根古屋が城跡としてのこっている。
本丸、二の丸、三の丸と続き昔のおもかげがのこされている。
正応永仁(1288年)伏見桃山時代、武茂泰宗が築城した。泰宗武茂庄十余郷を領して武茂氏となる。
応永14年(1407年)武茂氏一旦断絶する。寛正(かんしょう)4年(1463年)宇都宮正綱の三男兼綱が武茂氏を相続し、一万石の領主となる。兼綱、乾徳寺を建立、武茂家の菩提寺とした。武茂累代の墓石が当山の墓地中央にある。
山門は武茂家の門として武茂家の定紋が両側に刻されており、菩提寺へ寄贈されたものである。
様式は桃山時代の建築を取り入れ、質素な建造物である。改修札に安永2年霜月大改修の棟札が残されている。
乾徳寺は三面山岳を以って渓間幽谷の地にあり、東に滝ケ沢、西に闇ケ沢、かかる浄音の地にあるも、偶偶(たまたま)明治36年4月8日、町内よりの飛火に不慮の火災に逢い七堂がらん悉く(ことごとく)灰燼(かいじん)に帰せり、再建に檀徒の総力と信者の浄財を得て、同44年4月4日当山四十一世保寿代、8年の歳月を以って現在の本堂及び開山堂が再建されました。
・・・・・以下省略します。
散り残る
みきはの桜かげみえて
花の波たつ
春風ぞふく

藤原泰宗
と、書いてあるそうです。読めないですね。
■説明板・・・
●武茂泰宗と一族譜
関白藤原氏を系譜とする名族、宇都宮7代城主景綱の三男泰宗が正応永仁の頃(1288〜)、武茂の荘を領して武茂氏の始祖となった。初代泰宗は、傑出した歌人であった父の影響を受け鎌倉や京都歌壇との交流を密に、早くから詠歌にいそしんでいた。泰宗の歌は、続拾遺和歌集(しょくしゅういわかしゅう)を初めとする勅撰歌集に15首がのるなど、多くの秀作を今日に伝えている。武茂氏は、宗家宇都宮氏の中でも有力支族であった。泰宗の子貞泰は京都守護職をつとめ、尚伊予宇都宮系譜によれば貞泰の男宗泰が伊予宇都宮2代城主となり、天正13年(1585)まで八代にわたって大洲に居城した。3代泰藤は、南北朝の戦乱を弟氏泰と共に南朝方の武将として奮戦したが、戦いに利無く再起実らず三河大和田に住まい、妙国寺を建立して諸々の霊を弔った。泰藤の子孫は、徳川氏に仕え7代忠茂の代に姓を大久保と改め、譜代の重臣として数々の事蹟を留めている。6代持綱が、宇都宮13代城主となり武茂氏は一時断絶するが、永正3年(1506)宇都宮正綱三男兼綱をもって再興された。降って常陸佐竹氏の下野進出に伴い、武茂氏はその旗下に属し慶長7年(1602)佐竹氏秋田移封に随行して武茂城は廃城となった。城郭内の乾徳寺は、武茂氏300年にわたる一族の菩提寺として建立されたものである。
平成5年10月吉日 馬頭町長 白寄進