■案内板・・・
●将軍塚
昔、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、桓武天皇(かんむてんのう)から「奥州の賊、蝦夷(えぞ)を征伐するように」と命令を受けました。
その頃は、奥州の賊のいきおいが、大変さかんでしたから、少しばかりの軍勢では、かえってやっつけられてしまうので、田村麻呂将軍は、たくさんの軍勢をしたがえ、威風堂々と進軍してきました。箒川を越えて少し行くと、辺り一面ぼうぼうの那須野が原で、ここには、蝦夷の手下のものが、様子をさぐりに「チラチラ」と姿をあらわしていました。
田村麻呂将軍は、京都からはるばるここまで長い日数をかけてやってきたが、いよいよこれから先きが、賊と戦わなければならないと考え、全軍をとどめて最後の戦の準備をさせました。
しかし、いつ賊の大軍に襲われるかわかりませんので、、高い丘の上に見張りをおいて、けっして気を緩めることは、ありませんでした。
この時の見張り所と、将軍の本陣があった所が、いま「将軍塚」と呼ばれている所で、矢じりを作り戦の準備をしたところが「矢櫃(やひつ)」、馬のつないでおいた所が「馬立(またて)」、大勢の人たちの食事の準備をしたところが「烹飯(にまま)」といって今でもその名が残っています。
矢板の伝説(前篇)より |