滋賀県
■百済寺(ひゃくさいじ)でいただいたパンフレット・・・湖東三山 四季百彩に包まれた『地上の天国』
●国史跡 釈迦山 百済寺(ひゃくさいじ) ○近江西国第16番札所 ○神仏霊場第141番札所
【百済寺の略歴】・・・
近江最古級の古刹(こさつ:由緒ある古い寺。古寺。)、1400年の法灯
当山は、推古天皇の御代に、聖徳太子の御願により百済人のために創建された古刹で開創当時の御本尊は、太子御自作の「植木の観音」であったと伝えられる。又、御堂は百済国の梵閣{龍雲寺」を模して建てられ、開闢(かいびゃく:信仰の地として山を開くこと。またその人。開祖。)に当たっては高句麗の僧、恵慈を咒願(しゅぐゎん:法会(ほうえ)などの際に、僧が施主(せしゆ)の幸福などを祈願すること。)とし、その後の供養には、百済の僧を任ぜられた。
その後、時代は移り平安京に都が奠められ(さだめられ)、比叡山に天台宗が開創されると、やがて当山も天台の寺院となり、その規模は拡大され、「湖東の小叡山」と称されたほど壮大な寺院となった。「東寺観智院文書年代記近衛天皇天養元年の条」に「百済寺号天台別院」と記されている。又、勧進帖(明応)序文に依れば「当寺一山境内を東西南北の四ツ谷に分ち、7間4面の本堂には楼門廻廊を配し、阿弥陀堂・五重塔婆・常行三昧院・阿弥陀堂・太子殿・二階堂・大聖院・五大力堂・愛染堂・長徳院・三所神殿・鐘楼・経蔵等の諸堂甍を連ね、四ツ谷の塔頭三百余坊」とあり、平安末期から鎌倉室町に至る間の当山はまことに荘厳な大寺院であった。然るに明応7年、自火により本堂附近の建物を焼失し文亀3年には、戦乱による災厄に遭い、荘厳な古建築物を多く焼失したが、当時はなお再興し得る勢力を保っていた。当山の衰亡は、これより70余年後の天正元年4月であった。
元亀元年秋、佐々木義治等、織田信長に抗し、森備前守(その子僧となり当山南谷光浄院に住す)等、義治を奉じ、鯰江城に入るや、当山衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護した為、これを知った信長の兵火により惜しくも一山悉く(ことごとく)焼亡烏有(しょうぼううゆう:焼失してなにもなくなってしまうこと)に帰し、僅かに御本尊等数体の主な仏像と、重要な経巻を奥ノ院西ケ峰に遷座守護し辛うじて難を免れた。まことに有為転変の世の姿をそのままに、荒涼人影を見ぬこと10年、信長も亦、本能寺の煙と化した。これによって天正12年、当山には、堀秀政により仮本堂を建てられ、慶長7年に至って146石5斗の地を寺領として免除され、一山の坊舎もその数を増し、漸く(ようやく)復興に向かった。その後、寛永年間には天海大僧正の高弟、亮算入寺し伽藍の再興を計り勅許を仰ぎ、寛永14年には明正天皇綸旨(りんし)を下し給い、改建を勅許された。
住層等は大いに喜び、諸国に勧進し、井伊直孝朝臣御取持を以て、土井利勝・酒井忠勝・栄勝院局・春日局の喜捨を得、尚、甲良豊後守宗広より金子500両の寄進あり、慶安3年、本堂・仁王門・山門等が竣工した。これが現在の建築物である。
滋賀県東近江市百済寺町
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