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   小山市 26.5.5    No11
間々田のジャガマイタ(蛇まつり)
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■説明板・・・
●間々田八幡宮由緒
間々田八幡宮の創建は古く、今から約1200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶2年(932)平将門の乱が起こるや、朝廷は藤原秀郷に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌(※しんせん 神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のこと)御料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。文治5年(1089)陸奥の泰衡の乱に征討の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓(※きせい 神仏にいのって誓いを立てること)ありしを聞き、戦勝を祈願して松樹を植えた。後に人これを、「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治38年枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道18宿を置く行程36里なり。日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。また、朝廷は日光東照宮に例幣使(※れいへいし 朝廷より毎年,神社に幣帛を奉るため遣わされる祭使のこと)をさしつかわし、例年、幣帛(※へいはく 幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称である)を賜るが、その道中、当駅をへるに鎮座せる神社の由緒あるを聞き、当八幡宮を必ず参拝されるを例とされ、享和年間の社殿焼失まで続いたと言い伝えられている。正徳2年(1712)6月神祇官より神階正一位の宣旨を受ける。

享和年間に失火し、社殿ことごとく灰燼(※かいじん 建物などが燃えて跡形もないこと)に帰した。よって御神霊を仮殿に安置し、嘉永4年(1851)に至り現在の社殿を再建した。建立に関係した宮大工は、折しも東照宮大修理にあたって各地から招かれた、宮大工であったと伝えられ、御本殿の彫刻には、その優秀な技術をしのぶことができる。当八幡宮境内はこの近隣に類をみないほど広大で、小山市に貸与したある公園の部分を含めると約2万坪の敷地を有している。数百年の樹齢を数える杉の古木が荘厳な雰囲気を醸し出し、緋鯉(ひごい)、真鯉(まごい)の遊泳する神の池には、春の桜、秋の紅葉がその艶やかな姿を映し、氏子崇敬者や市民の憩いの場となっている。また、松尾芭蕉は、奥の細道紀行で江戸を出発して2日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が立てられている。この句碑は病気平癒を祈願した氏子が、全快のお礼に嘉永年間建立したものであるが、御神徳による霊威は古い昔から伝えられるところであり、近年でも足を病んで歩行できなかった茨城の婦人が、夢に見た当神社を写真に撮り、朝夕拝んだところ病たちまち癒えたとお礼参りに来られたり、都内の本社を置く会社の社長は、当神社に祈願し、社殿下の砂を拝領して会社を起こして見事に成功した例など枚挙にいとまがない。これ偏に遠く天平の昔より間々田八幡宮のご加護を信じ、崇拝し、神社加護に力を尽くした氏子崇敬者の赤心(※せきしん 嘘いつわりのない、ありのままの心)に有難きご神徳が益々発揚されている証しであろう。