・・・・・上河内(宇都宮市)の風景・・・・・
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   上河内(宇都宮市)    25.4.16
逆木用水(さかさぎようすい)
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逆木洞門・・高間木取水堰
■説明板・・・
●逆木用水(さかさぎようすい)のご案内
この看板の下を勢い良く流れているのが「逆木用水」です。逆木用水は「小倉米(こくらまい)等」で有名な米どころ約3500haの水田をかんがいする用水ですが、ここから約6km上流・塩谷町船生の佐貫観音(さぬきかんのん:国指定史跡)近くに造られた「佐貫頭首工(とうしゅこう):堰(せき)」から取り入れられます。鬼怒川右岸には、木杭や蛇篭(じゃかご)等で造られた4つの用水堰があり、高間木(こうまぎ)用水、逆木用水、根川用水、東芦沼用水を取り入れていました。洪水時に導水堤や堰が災害を受け、必要な水量の確保や施設の管理・普請に大変な苦労が必要でした。昭和20年代の半頃、五十里ダムや川俣ダム等洪水防止を目的とするダムの建設が進められるのを契機に、堰の代表者達は堅固な堰をつくりたいと「西鬼怒川土地改良区」を組織して対岸の5つの用水堰の代表者達と話し合い、国営(当時農林省)事業を推進することとして9用水堰の意向がまとまり、昭和28年(1953)には「鬼怒川中部土地改良区連合」が設立されました。以来、国営事業は、昭和32年に着工して、佐貫頭首工と9ケ所の用水堰とを結ぶ21.5kmの導水路を建設し、昭和41年に完成しました。
佐貫頭首工で取り入れられた用水は、トンネル等5.6kmの「導水幹線」で生まれる落差で「栃木県営風見発電所」が発電した後、鬼怒川左岸に開ける約5300haの水田を潤す市の堀用水や草川用水等の「東幹線水路」と逆木用水等「西幹線水路」とに分かれ、逆木用水は鬼怒川の底をサイフォン(暗渠(あんきょ))で渡って、ここで顔を出すことになります。この逆木用水は、下流の東京電力「西鬼怒川発電所」でも利用されています。逆木用水の旧取り入れ口は、この堤防上流端の岩山をくり抜いて作られていましたので、その洞門入口跡を見ることができます。鬼怒川中部土地改良区連合は、現在左岸の塩谷町大宮・赤沼用水・鬼怒川東部・釜ケ渕土地改良区と右岸の西鬼怒川土地改良区の5つで組織されています。
鬼怒川中部土地改良区連合
西鬼怒川土地改良区
■説明板・・・
●鬼怒川と西鬼怒川
鬼怒川は、アイヌ語で「河床の輝く川」という意味を持つと言われ、続日本記には「毛野川」と記され、その後「けぬ」が「きぬ」に転じ「絹川」、「衣川」と称されるようになった。江戸時代の文書には、「鬼怒川」と記されており、統一された名称となったのは明治時代に入ってからのことである。この川は「鬼」「怒」「川」の名のごとく氾濫して洪水を度々起こす川でもあり、鬼怒川の氾濫は、流域の住民に大きな打撃を与え江戸時代においては、宇都宮藩にとっては悩みの種であった。元和6年(1620)、城主本田正純(※本多正純)は農民の苦難を救うためと、新田開発を目的に、分流している西鬼怒川へつなぐ逆木用水掘削工事に着手、あわせて下流の今里宿から宇都宮城下を流れる田川へ結ぶ「新筏川」をも開削させ城の改築、町割などの工事用材の運搬に供した。これが後の「御用川」である。これより宝暦4年(1754)に上小倉村外47ケ村による「逆木用水組合」が設立された。逆木用水組合はこのような状況を改善するため幾度となく領主へ、また明治になってからは県知事に災害防止対策を講じるよう陳情を重ねた。これにより、明治30年に栃木県の一大事業として鬼怒川本流から2孔の隧道により分水し、下流に新たな水路を設け従来の西鬼怒川に合流させ安定した水流維持を図るための工事が、1年5ケ月の歳月とのべ人員23万8千人、工事費11万5千円という大規模な事業として行われた。これが「逆木洞門」である。その後、鬼怒川中部土地改良事業の一環として風見発電所が新設され、その放水口より鬼怒川本流をサイホンで横断して取水することにしたため、昭和42年に「逆木洞門」は閉鎖された。鬼怒川と西鬼怒川は流域に生きる人々との深いかかわりあいを持ちながら、今日まで幾多の星霜を重ねてきた川であり、その膨大なエネルギーは社会的、歴史的なドラマを生み出し、自然と人間の調和を図り、和む心と愛を育み、豊かな生活をつくりだしている母なる川である。
宇都宮市