・・・・・上河内(宇都宮市)の風景・・・・・
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   上河内(宇都宮市)    25.4.16
逆木洞門
上河内緑水公園01・・上河内緑水公園02・・上河内緑水公園03・・逆木用水・・古宿遺跡・・高間木キャンプ場・・逆木水神神社・・
逆木洞門・・高間木取水堰
■説明板・・・
●鬼怒川と西鬼怒川
鬼怒川は、アイヌ語で「河床の輝く川」という意味を持つと言われ、続日本記には「毛野川」と記され、その後「けぬ」が「きぬ」に転じ「絹川」、「衣川」と称されるようになった。江戸時代の文書には、「鬼怒川」と記されており、統一された名称となったのは明治時代に入ってからのことである。この川は「鬼」「怒」「川」の名のごとく氾濫して洪水を度々起こす川でもあり、鬼怒川の氾濫は、流域の住民に大きな打撃を与え江戸時代においては、宇都宮藩にとっては悩みの種であった。元和6年(1620)、城主本田正純(※本多正純)は農民の苦難を救うためと、新田開発を目的に、分流している西鬼怒川へつなぐ逆木用水掘削工事に着手、あわせて下流の今里宿から宇都宮城下を流れる田川へ結ぶ「新筏川」をも開削させ城の改築、町割などの工事用材の運搬に供した。これが後の「御用川」である。これより宝暦4年(1754)に上小倉村外47ケ村による「逆木用水組合」が設立された。逆木用水組合はこのような状況を改善するため幾度となく領主へ、また明治になってからは県知事に災害防止対策を講じるよう陳情を重ねた。これにより、明治30年に栃木県の一大事業として鬼怒川本流から2孔の隧道により分水し、下流に新たな水路を設け従来の西鬼怒川に合流させ安定した水流維持を図るための工事が、1年5ケ月の歳月とのべ人員23万8千人、工事費11万5千円という大規模な事業として行われた。これが「逆木洞門」である。その後、鬼怒川中部土地改良事業の一環として風見発電所が新設され、その放水口より鬼怒川本流をサイホンで横断して取水することにしたため、昭和42年に「逆木洞門」は閉鎖された。鬼怒川と西鬼怒川は流域に生きる人々との深いかかわりあいを持ちながら、今日まで幾多の星霜を重ねてきた川であり、その膨大なエネルギーは社会的、歴史的なドラマを生み出し、自然と人間の調和を図り、和む心と愛を育み、豊かな生活をつくりだしている母なる川である。
宇都宮市
■説明板・・・
●逆木洞門
宝暦4年(1754)逆木用水組合が設立されて以来、川除工事などは、公私双方により費用の支出を行って鬼怒川における出水の害に備えるなど最善の努力がなされていた。はじめ用水路であった西鬼怒川は次第に大きくなり水害は広がる一方になった。明治25年には、被害者一同3ケ村8ケ大字の代表として神山藤次郎・笹沼長平の両名により、知事、折田牛内に「西鬼怒川分水口逆木治水工事請願書」が出された。その後、明治29年に大洪水となったことがきっかけで、県当局は技士2名を派遣し、設計を立てさせた。よって、明治30年2月起工・翌31年竣工・請負人・亀田易平・大宮慶次郎・工費11万5千円。人夫延べ23万7千余人の厖大(ぼうだい)な工事として成し遂げられたのである。
宇都宮市教育委員会
高間木自治会
↓取水口
↓出口 ハナメド洞門というらしい。