接骨木(ニワトコ)の一里塚
■説明板・・・
接骨木の一里塚(にわとこのいちりづか)
この一里塚は会津中街道の一里塚ではないかといわれていますが、その道筋などから考えて疑問があるようです。江戸時代の那須野が原の西部には、会津中街道や原街道をはじめとする主要な道のほかに、城下町の大田原や村落を結ぶいくつもの道が通っていましたので、これらの道の一つではないかとも思われています。一里塚は、江戸時代に一里(約4km)ごとに街道の両側に築かれた塚で、その上にエノキやマツなどが植えられました。旅人の目安であり、休息の場でもあったようです。接骨木の一里塚は、スギとサクラが植えてあり、集落を出る時には見送り、戻る時には出迎えてくれるようで、地域の方々に親しまれています。特に落雷の痕(あと)が痛々しく残るスギには強い生命力を感じ、大変存在感があります。
●会津中街道・・・
1695年(元禄(げんろく)8年)につくられた全長約128kmの道で、福島県の会津若松から県境の大峠(おおとうげ)・三斗(さんと)小屋・板室(いたむろ)・横林・矢板を経て、氏家の阿久津河岸に至っています。会津藩の廻米(かいまい((江戸などに運ばれる米)))輸送等に使われました。
●原街道・・・
1645年(正保(しょうほう)2年)に整備された全長約70kmの道で、福島県の白河から夕狩・高久・東小屋・石林(槻沢(つきのざわ)を経て氏家に至っています。廻米輸送等に使われました。
・・・接骨木は木の名前。日本では普通に見られる樹木とのこと。この木を利用して骨折の治療に使ったそうです。接骨木がたくさんある地域だったので地名を接骨木にしたのかもしれない。接骨木・・・⇒にわとこ 読めない。 |