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●益子町の風景 栃木県芳賀郡益子町 |
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地蔵院 真言宗 |
地蔵院・・・地蔵院本堂・・・地蔵院観音堂・・・地蔵院イトヒバ・・・地蔵院菩提樹・・・宇都宮歴代城主の墓所
尾羽の里・・・鶴亀池・・・綱神社・・・大倉神社・・・海音坊跡・・・西念坊跡・・・お昼のところ |
■説明板・・・
●大羽地区の文化財について
○国指定重要文化財 地蔵院本堂(じぞういんほんどう) 1棟 附 旧壁板1間分
桁行5間(12.18m)梁間(9.74m)単層屋根入母屋造 銅板葺(杮葺:こけらぶき)
本堂は、以前に存在した一村山尾羽寺の阿弥陀堂として建立されたものと推定されるが、その建立年代は不明である。しかし、木割の細い構造で洗練された斗栱(ときょう:建築部材の一部)や簡単な桟唐戸等、及び内部の波形連子欄間、一木造の斗栱等の手法は室町期の特徴をよく示している。なお、板壁に「命緑三壬刁三月三日」の墨書がある。(昭和37年6月21日指定)
○国指定重要文化財 綱神社本殿 1棟
桁行3間(4.56m)梁間1間(1.97m)三間社流造 茅葺(かやぶき)
本殿は、地蔵院本堂とほぼ同時期の建立と推定される。勾配の大きい茅屋根に対し柱の木割は細く軸部向揺柱の大面とり、頭貫の端の彫刻等は室町期の特徴を顕著に表している。特に、勾欄(こうらん)、脇障子、扉装置などは優美であり、総体素木造りの整った形態である。(昭和37年6月21日指定)
○国指定重要文化財 綱神社摂社大倉神社本殿 1棟 附 前机 1脚
桁行1間(1.58m)梁間1間(1.40m) 一間社流造 茅葺
本殿は、もと大倉村(現在地より約1km西北)の愛宕神社本殿にあったものを、明治42年に現在の綱神社境内に移築し合併したものである。建立年代は不明であるが、斗栱、木鼻(きばな)、破風(はふ)、懸魚(げぎょ)等いずれも室町期の手法であり、小本殿ではあるが雄建の風をよく残している。なお、本殿内前机(幣束台)裏面に「大永七年●十月十七日」の墨書がある。(昭和37年6月21日指定)
○栃木県指定史跡 宇都宮家の墓所(うつのみやけのぼしょ)鎌倉時代~明治時代
宇都宮朝綱(宇都宮家第三代城主)は、この大羽の地に隠世(かくりよ=常世)するとともに、この地に宇都宮家累代の墓域を造営した。東西約80m、南北約40mあり、初代宇都宮宗円(兼綱?)から三十三代正綱に至るまでの五輪塔が30余基並んでいる。しかし、いずれも無銘であるため誰がどの五輪塔という確たるものもなく、信用に足る記録もない。また五輪の組み合わせ方も長い年月のうちに入れ違いを生じているが、今後の研究を待たねばならないところである。なお、初代宗円から二十二代国綱までは宇都宮城主であったが、二十三代義綱に至るまでは水戸家の客分であった。(昭和42年1月20日指定)
栃木県教育委員会・益子町教育委員会 |
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地蔵院観音堂 |
■説明板・・・
●地蔵院観音堂 所在地 益子町大字上大羽945 地蔵院 建築年代 室町初期 ●様式 寄棟造 銅板葺 ●規模 桁行(けたゆき)4.2m 梁間4.01m ●高さ5.75m ●特徴 堂宇は三間四面で中央間口1.72m両側1.15mであり、実長4.24m四方の規模の小さい堂である。柱は高さ2.3mの栗材を用い、面取角柱である。飾気のない建築手法であるが茅負に年代の古さを見ることができる。●昭和58年度に解体修理 現在の銅板葺はこの時茅葺(かやぶき)の上に銅板をかぶせたものである。
町指定 昭和48年2月7日 益子町教育委員会 |
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菩提樹 |
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