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●益子町の風景    栃木県芳賀郡益子町
宇都宮家累代の墓所
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20.1.26
地蔵院・・・地蔵院本堂・・・地蔵院観音堂・・・地蔵院イトヒバ・・・地蔵院菩提樹・・・宇都宮歴代城主の墓所
尾羽の里・・・鶴亀池・・・綱神社・・・大倉神社・・・海音坊跡・・・西念坊跡・・・お昼のところ
■案内板・・・
●地蔵院周辺案内図
宇都宮氏は、鎌倉時代初め(今から約800年前)益子町周辺を含む栃木県南東部から茨城県西部を広く支配していました。宇都宮氏第三代当主の朝綱(ともつな)は、隠居するにあたり、この地の一村山尾羽寺(いっそんさんおばでら)を隠棲(いんせい)の場所に定め、周辺を整備し、尾羽山地蔵院(おばさんじぞういん)を創建しました。以来地蔵院は、宇都宮氏の菩提寺(ぼだいじ)となり、周辺に多くの寺社が建立されて発展しました。絵図などによると、付近には尾羽寺を中心に南には浄土庭園(じょうどていえん)の一部である鶴亀(つるかめ)の池が、対岸には源頼朝(みなもとのよりとも)の寄進とされる阿弥陀堂(あみだどう:現在の地蔵院本堂、国指定重要文化財)が、その隣には観音堂(かんのんどう)が位置しています。また西側には宇都宮家累代(うつのみやけるいだい)の墓所(ぼしょ)が位置し、池に臨む高台には頼朝の寄進とされる多宝塔(たほうとう)が明治初めまで建っていました。東側には綱神社(つなじんじゃ:国指定重要文化財)があり、それは朝綱が土佐に配流(はいる)された時祈願した高鴨神社(たかかも)を赦免(しゃめん)後に勧請(かんじょう)し創建したものです。なお、大倉林(おおくらばやし:現在の大羽小学校付近)に古くから鎮座(ちんざ)して信仰を集めていた大倉神社(おおくらじんじゃ:国指定重要文化財)も綱神社の摂社(せっしゃ)となって隣に移されています。朝綱の創建した地蔵院は、これらの北側に位置していました。往時にはこの地にも多くの寺社が周辺にあったようで、尾羽寺や地蔵院を中心に多くの堂塔や社殿が軒を並べていたと思われますが、現在はその多くが失われ畑地や山林となっています。
平成12年3月 益子町 益子町教育委員会
■説明板・・・
●宇都宮家累代の墓 昭和42年1月20日栃木県指定史跡
建久5年(1194)宇都宮左衛尉朝綱は土佐の国に配流赦免の後、家督を頼綱(宇都宮城主五代)に譲り大羽の地に隠棲した。朝綱はこの地に土佐明神を勧請して綱神社を創建し、更に大羽山地蔵院(墓所より北方約100メートル)を開山創立した。そして名を尾羽入道と改め、初代宗円、二代宗綱の墓を築いてから、大羽の地は宇都宮家の墳墓の地と定まった。又墓付家老をおき家臣を常住させ墓域の管理守護に当たらせた。慶長2年(1597)宇都宮22代城主国綱の時、家督相続について豊臣秀吉の怒りに触れ闕所(けっしょ:戦乱,謀反,犯罪などによって没収された所領・所職,もしくはその没収行為をいう。)宇都宮城を離れたが、23代義綱が水戸藩の客将となってからも祭祀(さいし:神や祖先を祭ること)供養は続けられ今日に至っている。鎌倉初期から大正時代まで33代に亘って造営され続いた募域は整然としており、このような長期に亘る武将の墓域造営は全国にも類例は少ない。特に宇都宮氏が水戸藩に移ってからも、その遺徳とこの地に定住した家臣団が、この霊域を守護し続けた関係で現在でも「御廟」と言われ守り続けられている。
益子町教育委員会