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●益子町の風景    栃木県芳賀郡益子町
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鶴亀の池
地蔵院・・・地蔵院本堂・・・地蔵院観音堂・・・地蔵院イトヒバ・・・地蔵院菩提樹・・・宇都宮歴代城主の墓所
尾羽の里・・・鶴亀池・・・綱神社・・・大倉神社・・・海音坊跡・・・西念坊跡・・・お昼のところ
■案内板・・・
●地蔵院周辺案内図
宇都宮氏は、鎌倉時代初め(今から約800年前)益子町周辺を含む栃木県南東部から茨城県西部を広く支配していました。宇都宮氏第三代当主の朝綱(ともつな)は、隠居するにあたり、この地の一村山尾羽寺(いっそんさんおばでら)を隠棲(いんせい)の場所に定め、周辺を整備し、尾羽山地蔵院(おばさんじぞういん)を創建しました。以来地蔵院は、宇都宮氏の菩提寺(ぼだいじ)となり、周辺に多くの寺社が建立されて発展しました。絵図などによると、付近には尾羽寺を中心に南には浄土庭園(じょうどていえん)の一部である鶴亀(つるかめ)の池が、対岸には源頼朝(みなもとのよりとも)の寄進とされる阿弥陀堂(あみだどう:現在の地蔵院本堂、国指定重要文化財)が、その隣には観音堂(かんのんどう)が位置しています。また西側には宇都宮家累代(うつのみやけるいだい)の墓所(ぼしょ)が位置し、池に臨む高台には頼朝の寄進とされる多宝塔(たほうとう)が明治初めまで建っていました。東側には綱神社(つなじんじゃ:国指定重要文化財)があり、それは朝綱が土佐に配流(はいる)された時祈願した高鴨神社(たかかも)を赦免(しゃめん)後に勧請(かんじょう)し創建したものです。なお、大倉林(おおくらばやし:現在の大羽小学校付近)に古くから鎮座(ちんざ)して信仰を集めていた大倉神社(おおくらじんじゃ:国指定重要文化財)も綱神社の摂社(せっしゃ)となって隣に移されています。朝綱の創建した地蔵院は、これらの北側に位置していました。往時にはこの地にも多くの寺社が周辺にあったようで、尾羽寺や地蔵院を中心に多くの堂塔や社殿が軒を並べていたと思われますが、現在はその多くが失われ畑地や山林となっています。
平成12年3月 益子町 益子町教育委員会
■案内板・・・
●鶴亀の池 由来
鶴亀(つるかめ)の池は、鎌倉時代のはじめに宇都宮氏代三代当主朝綱(ともつな)がこの地に隠棲(いんせい)した際、尾羽寺(おばでら)に面した浄土庭園の一部として造営したことが始まりと考えられます。池は月日の経過とともに埋没し、近年では水田となっていましたが、このたびの「美しいむらづくり整備事業」の一環として園地(えんち)を整備することになりました。これに先立って埋没まえの池の姿を確認した結果、次のようなことが明らかになりました。
1.池は、出島状の二つの中島により区切られ、大きく三つに分かれている。
2.池の水は、東側の沢から15mほどの暗渠(あんきょ:地下に埋設された,あるいは地表にあっても蓋(ふた)をした導水路)を設けて水口(みなくち)に導いている。
3.一番上の池は、水口からの深さが最大で1.3mで、南側の岸はゆるやかな傾斜に造成され、水際には一部で木杭も見られる。
4.中の池から下の池にかけては、水口からの深さが最大約2.6mで、周辺の岸は垂直に近い急勾配で掘り込まれている。
5.池の北側の岸は、一部で埋め立てられており、池は現状よりも広かった。
以上のようなことが明らかになりましたが、池の全貌(ぜんぼう)が明らかになったわけではありません。また下の池の西側大部分は、県指定史跡(宇都宮家の墓所)になっているので、今回はできるだけ現状のままで保存することとしました。なお、今回の整備事業は確認された成果をもとに、池の原形に影響が及ばない範囲で実施しました。
平成12年3月 益子町・益子町教育委員会
↓鶴亀の池
↓鶴亀の池 由来