●けんか 千葉省三

●鹿沼が舞台の作品集を見て歩き
けんか 千葉省三

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千葉省三の「けんか」

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北押原のさとめぐり

この本のあとがきに次のように書いてありました。

あとがき
千葉省三の生誕百年を記念して、ふるさとフェア実行委員会が結成され、さまざまな事業に取り組みました。
その一つが、この出版企画です。
千葉省三の作品の多くは岩崎書店の「千葉省三全集」に収録されていますが、
今回の「けんか」は特に鹿沼が舞台と推定される十三編を選んで編集出版することにしました。
巻中、安野静治氏の「案内」をお読みいただければ解りますように、
省三が少年時代を過ごした鹿沼市の楡木付近が創作の舞台として数多く登場します。
「ふるさと」を見直すよすがになれば幸と思います。・・・・・略

千葉省三生誕百年ふるさとフェア実行委員会
代表 黒川常幸
安野静治氏の「省三のふるさと案内記」を参考に見て歩きました。

省三のふるさと案内記   安野静治

千葉省三のふるさと作品

千葉省三は、明治25年栃木県河内郡篠井村(現在は宇都宮市)の母の実家で、父亀五郎・母はまの長男として生まれた。父は小学校の教師であった。省三が二歳のとき、父は上都賀郡今市町(現在は今市市)の吉沢尋常小学校校長に転任、省三一家も校長住宅に移転した。
明治32年省三が三年生のとき、父は上都賀郡南押原村楡木(現在は鹿沼市楡木町)の楡木尋常小学校長に転任、省三も同校に転校した。省三は上京するまでの15年間(宇都宮中学校時代の宇都宮市の下宿も含む)を楡木で過ごした。省三は大正9年から昭和12年にかけて子どものための作品を数多く書いている。

特に『虎ちゃんの日記』や『鷹の巣とり』など「郷土童話」とか「村童もの」と呼ばれる名作は、ほとんど鹿沼を舞台に、書かれている。また、これらの作品の登場人物には、当時の友達をもとに造形化したものもある。省三は、鹿沼で育ち、鹿沼で育てられた児童文学作家ということができる。その千葉文学を深く味わうために、そのふるさとを訪ね、ゆかりの地と作品の舞台を案内してみたいと思う。
この正面が、千葉省三記念館 千葉省三記念館 左側になります。


1.『つけひげ』=三日月神社(上殿町)
鹿沼市街地から国道293号線を南下して、足利銀行上殿代理店(現在はない、セブンイレブン上殿店のところ)のところを東へ約1キロメートル入った右側に三日月神社がある。この神社が『つけひげ』の舞台なのだ。月読命をまつった駒場家の氏神であるが、いぼやおできに悩む人々の信仰を集め、宇都宮、今市、日光、粟野から人々が訪れている。
土地の人達には三日月さんと呼ばれて親しまれ、昔の祭日には店が出てにぎわったそうである。祭日は旧1月3日。作品では秋祭りになっている。友だちよりこづかいの少ない省三兄弟の心情を、こまやかに描いた好短編といえよう。
セブンイレブン上殿店 三日月神社  道標 


2.『鷹の巣とり』=ダイシャクボウ(塩山町)
国道293号線の大門宿信号機から右へ粟野町に向かって進むと、東武日光線の踏み切りがある。ここから1.5キロメートルほど進んだ右側の山麓の窪地に小さな集落がある。ここが大社久保である。この山は採石をしたことがあり、石山と呼ばれている。そこの石段を上がって鳥居をくぐると小さなお宮がある。
国道293号線 大門宿交差点 
 
踏切のところにある「吉次が墓」
 
石山
石段を上がると鳥居がある 小さな祠です。


さらに、急な勾配の雑木山を登ると、三角点のある頂上に着く。ここには、根元から三本に分かれた杉の木が立っている。昔は関東平野の眺望がよく、近くの学校の遠足の場所であった。省三も子供のころ、母ときのことりにきている。ここを少し下がると弘法大師が十六羅漢を彫刻したといわれる姥母石(うばいし)がある。
三等三角点 根元から三本に分かれた杉 少しだけ見える景色
姥母石 高さ5〜6mです
 
姥母石の十六羅漢 姥母石の十六羅漢

このあたりが、省三の代表作『鷹の巣とり』の舞台である。ぼたん杉はないが、小鳥のさえずりがよく聞こえる。この作品は、小学校の国語の教科書に掲載されているので、広く知られている。高い木から落ちた三ちゃんへのみんなの心配が「アッチー」と明るい笑い声に変わっていく。温かい友情をユーモラスに描いた傑作。方言の会話も巧みに駆使している。
この作品は教科書にあるので、全国の小学校や図書館から質問を受ける。ダイシャクボウとぼたん杉について説明する。ダイシャクボウとは地名である。石山の南麓の窪地に、大昔大蛇が潜伏していて、人畜に害を与えたところから大蛇が窪と呼ばれていた。また、あるとき、弘法大師が訪れて、姥母石に十六羅漢の仏像を彫刻したことから大師が窪と呼ばれるようになったという。これらのことがなまってダイシャクボウになったといわれている。
この石山には、姥母石の他に大師の硯石、空海の洗水池、空海の座石など弘法大師にまつわる伝説が多い。明治9年大社久保と改称されたというが、作品のダイシャクボウは大社久保にある石山をさしている。ぼたん杉という種類の杉はない。こんもりと茂った杉のことである。
硯石?中央が窪んでいる 座石? 三本の杉 太くはない
この石の上に立つと
景色が見える
石山の頂上 
ちょっと窪んでいる
池 


3.『ションベン稲荷』『みち』『芝居ごっこ』=竹やぶ(楡木町)
国道沿いに南下し、楡木神社に入る右の角の家が、『ションベン稲荷』に登場するすりうす屋である。すりうす屋と篭屋は屋号で、当時実在していた。篭屋のお稲荷さんは、古い石造で、倉庫の裏にあったが、竹やぶはなかった。作品のションベン稲荷は木造で、他の家のものか、創作上のものと思われる。『ションベン稲荷』は、『みち』の続編である。『みち』に登場する文殊院は、楡木町の中央にある成就院がモデルである。成就院には、昔、三人の子供がかかえるような大きなしだれアカシデがあった。
昭和三年、国の天然記念物に指定されたが、昭和五年古木となり、現存のものは第二世である。この寺院も竹やぶはなかった。『みち』は、子供達が、大竹やぶの中を探索しながら道を発見し、崖の上に出た喜びを描いている。短い作品だが、子供達の様子が目に浮かぶように描いている傑作だと思う。『ションベン稲荷』は、省三の作品の中でも、悪童達が活躍するが最も愉快な作品だと思う。自然の中で生きる子供達の姿が活写されている秀作だ。
なお、成就院を舞台にした作品に『欄間のほりもの』がある。『芝居ごっこ』も豊ちゃんの家の竹やぶが舞台なのである。豊ちゃんこと白井豊吉氏は、省三の幼な友だちであった。ここの屋敷に小屋をかけて、芸人が芝居をやったことがあり、省三は、芝居好きな豊吉氏と芝居ごっこをやった。後年、豊吉氏は、奈佐原文楽で浄瑠璃を語り、文楽保存に協力した。
この作品は、子供達が楽しんで遊んでいるところに、村の青年がやってきてきゅうり泥棒呼ばわりをする。お陰で芝居ごっこがぶちこわしになってしまう話であり、子供達の哀感を描いた作品である。これらの作品の舞台となった竹やぶは、省三の子供のころ、国道に沿った両側の家並みの裏に続いてあった。現在、その竹やぶもほとんどなくなってしまったが、上町の信号機の南東、中町の郵便局の裏、下町の足利銀行の南西、追分けの東あたりに、わずかに昔の面影を残している。
成就院のしだれあかしで
 
楡木神社 
わずかに見える竹やぶ


4.楡木尋常小学校跡=南押原郷土児童館・千葉省三記念館
楡木町の中央にある信号機の西側に、児童文学者千葉省三記念館の看板が立っている。ここを入ったところに、南押原郷土館と千葉省三記念館が立っている。南押原郷土館は、図書室・工作室・遊技室・事務室のある建物で、昭和56年4月1日に開館した。
千葉省三記念館は、生誕百年記念として併設し、平成5年11月1日にオープンした。この記念館は、省三の教え子の福島充氏が省三生誕百年を機会に永久に顕彰しようと私財を投じて建設したものである。ここには、鹿沼市教育委員会所蔵の、省三の作品・写真・原稿(写)・万年筆・文机・本箱・火鉢・帽子・衣類などの資料が展示されている。建物の西側には、鹿沼JA南押原農協の倉庫がある。
ここには、観音寺があって、庫裏が省三の学んだ楡木尋常小学校であった。『宿の子ども』には、「こんにゃく屋と、まんじゅう屋の間をはいって、桑畑の中をぬけると、そこに、まっくろく塗った、つっかえ棒をした、大きな長屋みたいな家が、横っちょを向いて立っていた。それが学校だった。」と書いている。こんにゃく屋は今でもあるが、まんじゅう屋はなくなっている。
千葉省三記念館 千葉省三記念館 
南押原郷土館


5.『安の話』観音寺墓地(楡木町)
小学校跡地のすぐ西側は、観音寺墓地だ。寺院はなくなったが、墓地は残っている。観音寺は、この作品になった正行寺として登場している。当時、このあたりに乞食が住んでいたので、宿の人達は、「まわりぶち」といって交代で食事を与えたという人情話が残っている。
この作品は、村のわんぱくな子供たちが、乞食の子の安をぶたにして、ぶた殺しの遊びをしながら、安の大事にしていた手帳をやぶってしまう。差別を通して、だれにでも人間として接することの大切さを感じさせる。
観音寺墓地 観音寺墓地 東武楡木駅 


6.『遠いラッパ』=大卵塔・小卵塔(楡木町)
観音寺墓地の南に、72カントリークラブのゴルフ場へ行く広い道があり、この道に沿ったところに、南押原公民館がある。この公民館の東側には大卵塔、西側には小卵塔がある。これは、ラントとかラントバ(卵塔場)と呼ばれた墓地のことだ。ラント場も昔の子供の遊び場の一つであった。
この作品は卵塔場で土蜂退治をした桃井の子供達が、宿でトテ馬車を発見して乗ろうとすると、「ざいごっぽは乗るな」と、宿の子供達によそ者扱いにされてけんかになる話。閉鎖的な子供の世界をユーモラスに描いた作品である。楡木神社が舞台になった『お鎮守さまにとまったこと』にも、小卵塔が登場している。
72ccへの道  東の墓地 西の墓地
南押原コミュニティセンター 南押原コミュニティセンター JA南押原出張所


7.『仁兵衛学校』=南押原高等小学校跡(磯町)
楡木追分けには、「右中仙道、左江戸道」と刻まれた道しるべの立石が、今も昔のまま建っている。ここから右の例幣使街道、現在の国道293号線を栃木市に向かって進むと、東北自動車道の交差したところに、南押原警察官駐在所がある。

ここには、南押原高等小学校遺跡の記念碑が建っており、この記念碑には、「明治三十一年四月栃木縣上都賀郡南押原村大字磯五一番地鈴木豊三郎氏宅を仮校舎として創立され、同三十七年九月、磯一〇八番地(現南押原中学校敷地)に校舎を新築移転した」と記してある。
追分 道標 栃木市方面 南押原高等小学校跡の碑


この仮校舎が『仁兵衛学校』のモデルであった。省三は、明治三十四年にこの学校に入学したが、当時、高等小学校は四年制で、省三はこの校舎で三年五か月学んでいる。『仁兵衛学校』は、「青葉しげれる桃井のほしのわたりのはげあたま・・・・」と歌う、いたずらずきな子供達と桃井先生の結びつきが人間味豊に描かれ、ユーモラスのある優れた作品である。これは、後に映画化された。


8.『けんか』『井戸』=鹿沼市立南押原中学校(磯町)
楡木追分けから左の壬生通り、現在の国道352号線を壬生に向かって南下、東北自動車道をくぐったところに、鹿沼市立南押原中学校がある。校舎の壁面には、当時の学校の絵が大きく描かれており、ここが、名作『けんか』『井戸』の舞台となった南押原高等小学校跡だ。
『仁兵衛学校』の作品に「三月になると、おちんじゅ様の向こうの草原に、あたらしい学校ができかかっていた。それに、仁兵衛学校とはくらべものにならないほど、大きくてりっぱだった」とあるように、南押原高等小学校は、明治三十七年九月に、この土地に新築移転した。省三は、この学校で七か月学んで卒業している。『井戸』のモデルとなった車井戸は、校舎の裏にあって、現在の南押原中学校の玄関前にあたる。
南押原中学校の壁画 中学校玄関前のロータリー 中学校から北方面撮影

『けんか』『井戸』は、主人公が、木村丑松で連作になっている。『けんか』は、のろまで学問のできない丑松が、いじめの対象になる。どんなにいじめられてもおとなしい丑松が、しかけられたけんかに勝って泣き出すところは圧巻である。『井戸』は、だれもいやがって入らない井戸に、無理にはいらせられた丑松が、フットボールの皮を「死んだ猫っ子でやんす!」と、逆に先生や級友を見かえすところは、思わず拍手を送りたくなってしまう。孤独な少年によせる作者の温かい愛情を感じる力作だ。
磯尋常小学校は、南押原高等小学校の西側に、二か月おくれた明治三十七年十一月、新築移転した。省三は、楡木尋常小学校に引き続きこの学校で再び代用教員をしているうちに、同僚の増渕サダと恋が芽生え、半田良平夫妻の媒酌によって結婚した。
南押原中学校 
南押原中学校 南押原小学校 


9.鹿沼市立楡木小学校(楡木町)
千葉省三記念館の前を宇都宮方面に進むと、左手に鹿沼市立楡木小学校がある。学校は、鉄筋のコンクリートの近代建築に変わった。校長室には、初代校長として、ひげをはやした威厳のある父亀五郎の写真が飾ってある。亀五郎は、明治三十二年から大正十年三月三十一日までこの学校に校長として勤務していた。
この学校は、明治四十二年十一月二十三日、観音寺から麻畑の地に新築移転した。これを記念に、宇都宮中学生であった省三は、同校先輩で当時東大の学生であった半田良平(歌人、深津出身)に、楡木尋常小学校の校歌を作らせている。この校歌はどんな校歌で、いつ頃まで用いられていたか不明であるが、省三は、中学校卒業後この学校で代用教員をしている。
楡木小学校 
楡木小学校 大日神社北から東方面撮影


10.『虎ちゃんの日記』=楡木橋(楡木町)
鹿沼市立楡木小学校から宇都宮に向かって四〇〇メートルほどのところに、黒川にかかった楡木橋がある。このあたりが、代表作『虎ちゃんの日記』の舞台なのだ。この橋は、虎ちゃんがしょんべんをした橋のモデルで、ここから南西の崖の上に大日様をまつった森が見える。
この大日様では、竹に幣束をつけた梵天を御神木の先に立てて、風雨順調、五穀豊穣を祈願した。大日様は、台山とよばれるところにあった。学校と黒川の間に昔、芦の生えたごんげん渕と呼ばれた沼があった。当時の子供達は、この沼で魚取りをして遊んだらしい。その後、大正時代の耕地整理でかんせん掘りができ、現在、田んぼに変わっている。このことから、大日様がボンテン山、ごんげん渕が大沼のモデルのように思われる。
この作品は、大正十四年に発表され、「郷土童話」と呼ばれる最初の作品で、省三の出世作であり、また、省三といえば『虎ちゃんの日記』といわれるほどの傑作である。昭和十四年に、毎日新聞事業部で映画化されている。この作品は、わんぱくで野性的ではあるが純朴で正義感があり、友情に厚い虎ちゃんを主人公にして、一か月間の夏休みを過ごす子供の群像を、鹿沼の方言を使って生き生きと表現している。子供のみしか知ることができない喜びや哀しみを、子供の立場で描いているのだ。
楡木橋 
大日神社 大日神社の森


11.『高原の春』上野っ原(藤江町、南上野町、池の森町)
楡木橋を渡って、楡木街道を宇都宮に向かって、藤江町の坂を上がると、南上野町の台地に出る。ここが、名作『高原の春』の舞台となった上野っ原なのだ。昔は雑木林の多いところであったが、現在は切り開かれて、造園業のさかんなところに変っている。
右手の山は、鹿沼カントリークラブのゴルフ場である。ゴルフ場は、以前、宇都宮が見える物見山や太郎坊山の雑木山があったが、この山の沢からわき水が出ていた。子供達は、この水を飲んで、きのことりをして遊んだそうだ。このあたりが「チョロチョロ金水」の舞台ではないかと思われる。このわき水はゴルフ場に変ってなくなってしまったが、現存する小金井溜に流れていたそうである。
この作品は、『乗合馬車』の続編である。春の高原の自然描写がすばらしい。自然の中にとけこんだ二人の子供が、チョロチョロ金水のところに走って行く。一ぷくの絵を見るような傑作である。
楡木橋東の風景 坂を上がる手前の風景 鹿沼カントリークラブ


12.『乗合馬車』=楡木街道(深津、南上野町)
宇都宮から楡木に通じる道路か楡木街道(作品の宮街道)である。日光連山がよく見えるところである。省三一家が、この街道をトテ馬車に乗って転校する様子を書いた作品が、『乗合馬車』である。実際は、『父母の記』の「さいなら吉沢」に書いているように、十何頭という馬が荷をつんで、例幣使街道を南下して転校した。
この作品の会話に登場する地名の勝木は楡木、布山は樅山か塩山、土沢は吉沢をさしている。トテ馬車から眺める自然描写がすばらしい。省三が愛読したツルゲーネフの『猟人日記』の影響があるといわれている場面だ。車中での会話、転校して行く学校の友達とそのおばさんの会話には、ほのぼのとしたものを感じさせられる。
トテ馬車をあつかった作品には、『乗合馬車』の他に、『定ちゃんの手紙』『幸平じいさんと馬車』『遠いラッパ』童話集『トテ馬車』などがある。
当時、楡木には、トテ馬車を営業していた家があった。省三は、少年時代に育った鹿沼を舞台に、多くの傑作を生み出し、日本児童文学史上に独自の千葉文学を築いた。千葉文学のふるさとは、鹿沼ということができる。
鹿沼カントリークラブ入口の風景 南上野町の風景 上石川の風景



千葉省三略年譜
1892(明治25年)誕生 11月27日栃木県河内郡篠井村(現在の宇都宮市篠井町)に生まれる。