栃木県の八幡宮
八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社。八幡神社、八幡社、八幡さまとも表記・呼称される。
全国に約44,000社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。
栃木県にも八幡宮は結構あります。

大田原市 金丸八幡宮(那須神社)
2020.11.10


26.1.27那須神社楼門・本殿は国指定重要文化財
1 薬師寺八幡宮(下野市薬師寺)
■説明板・・・
●八幡宮
八幡宮の起源は古く、主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で貞観(じょうがん)17年(875)京都石清水(いわしみず)八幡宮の祭神を勧請(かんじょう)して東北守護の大神としたと伝えられている。
また一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐(うさ)八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。天喜(てんぎ)4年(1056)源頼義(よりよし)が奥州追討の途中当社に立ち寄って戦勝を祈願したが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿などすべてを焼失したといわれている。その後近世に入って、新たにこの地を支配地とした佐竹右京大夫(さたけうきょうだゆう:秋田藩三代藩主)の援助によって寛文2年(1662)に本殿及び拝殿が再建されたものとされる。現存する本殿と拝殿はまさにその時代の特徴を留めており、17世紀にまで遡り得る県内でも数少ない神社建築として貴重なものである。
薬師寺の八幡宮は歴史も古く、常にこの地域のシンボルとして崇敬され深い信仰をあつめている。
平成8年3月 下野市教育委員会
2 下野國一社八幡宮(足利市八幡町)
3 塩原八幡宮(那須塩原市中塩原)
那須塩原市のホームページより・・・
創建は大同2年(807)とされている。「幕岩村正八幡宮略縁起」によると、康平元年(1058)、源頼義と嫡子の義家が前九年の役に、奥州安部貞任征伐のため、この八幡宮に立ち寄り戦勝祈願をして社殿を再興したとされる。
治承4年(1180)に源頼政一族が、神前に鎧兜を奉納、文治3年(1187)には源有綱(源義経腹心の武将)が訪れ八幡宮に参拝したと伝えられる。その後、源有綱は塩原八幡宮の側神として祀られ、地域の人々に尊敬され、塩原領主や藩主により代々守られ、村内安全、五穀豊穣の神様として崇敬される。
中世には宇都宮氏・小山氏等の祈願所として崇められ、江戸時代に入り宇都宮代々の藩主により寛政10年(1798)再興され、温泉神社を司る村社として、明治・大正・昭和を経て現在に至る。
けやき造り、間口1間、奥行1間、流れ造りの厚板葺き屋根。
【祭神】誉田別神、素盞鳴命、大山祇命、源有綱
4 宮原八幡宮(那須烏山市宮原)
那須烏山市ホームページより・・・
宮原八幡宮は、延暦-えんりゃく-14年(795)坂上田村麻呂-さかのうえたむらまろ-が蝦夷討伐の勝利を祈願し、筑紫山に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりとされ、明応-めいおう-2年(1493)那須資実-なすすけざね-が烏山城の拡張を行った際、現在の地に遷社されたといわれています。
天正-てんしょう-18年(1590)那須氏が改易され、その後、城主の交替が度々行われましたが、その間も各城主の崇敬と庇護は厚かったようで、修理や寄進が度々行われました。現存する棟札や多くの文化財がそのことを物語っています。
交通:JR烏山線烏山駅下車…徒歩25分(車5分)
20.5.21
5 中村八幡宮(真岡市中)
25.5.15
■説明板・・・
●中村八幡宮 真岡市中
主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)である。社伝によれば、天武天皇の時代、勅命により諸国に八幡宮が建立されたが、当社はその一社であるという。また、永正(えいしょう)年間(1046-52)に源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子が前九年の役(1051-62)に際して、常陸(ひたち)・下野・上野(こうづけ)の地に八社、八幡宮を建立し、石清水八幡宮(京都)を勧請(かんじょう)したが、その八八幡(やはちまん)の一社であるともいわれている。文治(ぶんじ)5年(1189)7月、源頼朝が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を追討するため奥州へ向かう際に、当社に戦勝を祈願、当地の領主中村時長(ときなが)も祈願し活躍することができたという。その勲功により、時長に伊達の地が与えられ、その子宗村(むねむら)が奥州伊達氏の祖になったといわれる。翌年、八幡宮に軍配が奉納されるなど伊達氏の守護神となった。以後、建久(けんきゅう)4年(1193)には、源頼朝より三十三町の神田の寄進を受けたり、伊達家代々の当主が、本殿や拝殿等の造営や修理などを行っている。また、寛永(かんえい)2年(1625)には、社殿修復にそなえて氏子たちが杉や檜2,400本を境内に植えている。(県指定天然記念物「中村八幡宮の社叢(しゃそう))以上のように、源氏や奥州伊達氏との関係が深い神社である。
平成18年9月 真岡市教育委員会
6 樺崎八幡宮(足利市樺崎町)
27.3.24

7 亀岡八幡宮(芳賀郡益子町小宅)
20.4.4
8 塙田八幡宮(宇都宮市)
18.9.28
市民憩の森八幡山公園に鎮まる 宇都宮城北の守護の八幡宮
由緒(由来)
当神社の御祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと:応神天王)と併せて配神事代主命(ことしろぬしのみこと:えびすさま)、稲倉魂命(うかのみたまのみこと:稲荷さま)を祀り、明正天王の御代寛永18酉歳8月(1641)宇都宮城主が北の守護神として祭祀建立したものと伝えられ奥平美作守(おくだいらみまさかのかみ)が再建したと記され永く武の神として城下の人々の崇敬をうけてきた。
旧塙田村の氏神さまとして村人の厚い信仰にささえられて今日へと守られてきている。この御社(おやしろ)の名称から八幡山公園と名付けられ桜の名所として多くの花見客が訪れて殷賑(いんしん)を極め広く親しまれている。丹塗り(にぬり)の本殿と朱塗りの鳥居は花や緑に映えて訪れる人々の心のやすらぎと雅趣(おもむき)を与えて静かに鎮座する。境内には琴平神社、須賀神社の両末社が鎮座され塙田の天王祭みこしは市内屈指の大型神輿で有名
9 長沼八幡宮(芳賀郡二宮町長沼)
17.11.19
■説明板・・・
●長沼八幡宮  ≪由緒≫
延暦14(795)年、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が蝦夷征伐の帰途、この地にとどまり1社を造営し、弓矢の神である誉田別尊(ほんだわけのみこと)を祭り、八幡宮を勧請したことにはじまる。その後、康平(こうへい)年間(1058-1064)に火災にあったのをはじめ、何度かの興亡を経て元禄5(1692)年に別当道樹房仁諶真(どうじゅぼうじんしん)が浄財を集めて再建の工を起こし、元禄10(1697)年10月竣工して現在にいたっている。
10

間々田八幡宮(小山市間々田
26.5.5
国選択無形民俗文化財「ジャガマイタ」行事は間々田八幡宮で行われる。

■説明板・・・
●間々田八幡宮由緒
間々田八幡宮の創建は古く、今から約1200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶2年(932)平将門の乱が起こるや、朝廷は藤原秀郷に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御(※しんせん 神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のこと)料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。

文治5年(1089)陸奥の泰衡の乱に征討の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓(※きせい 神仏にいのって誓いを立てること)ありしを聞き、戦勝を祈願して松樹を植えた。後に人これを、「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治38年枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道18宿を置く行程36里なり。日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。

また、朝廷は日光東照宮に例幣使(※れいへいし 朝廷より毎年,神社に幣帛を奉るため遣わされる祭使のこと)をさしつかわし、例年、幣帛(※へいはく 幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称である)を賜るが、その道中、当駅をへるに鎮座せる神社の由緒あるを聞き、当八幡宮を必ず参拝されるを例とされ、享和年間の社殿焼失まで続いたと言い伝えられている。正徳2年(1712)6月神祇官より神階正一位の宣旨を受ける。

享和年間に失火し、社殿ことごとく灰燼(※かいじん 建物などが燃えて跡形もないこと)に帰した。よって御神霊を仮殿に安置し、嘉永4年(1851)に至り現在の社殿を再建した。建立に関係した宮大工は、折しも東照宮大修理にあたって各地から招かれた、宮大工であったと伝えられ、御本殿の彫刻には、その優秀な技術をしのぶことができる。当八幡宮境内はこの近隣に類をみないほど広大で、小山市に貸与したある公園の部分を含めると約2万坪の敷地を有している。数百年の樹齢を数える杉の古木が荘厳な雰囲気を醸し出し、緋鯉(ひごい)、真鯉(まごい)の遊泳する神の池には、春の桜、秋の紅葉がその艶やかな姿を映し、氏子崇敬者や市民の憩いの場となっている。

また、松尾芭蕉は、奥の細道紀行で江戸を出発して2日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が立てられている。この句碑は病気平癒を祈願した氏子が、全快のお礼に嘉永年間建立したものであるが、御神徳による霊威は古い昔から伝えられるところであり、近年でも足を病んで歩行できなかった茨城の婦人が、夢に見た当神社を写真に撮り、朝夕拝んだところ病たちまち癒えたとお礼参りに来られたり、都内の本社を置く会社の社長は、当神社に祈願し、社殿下の砂を拝領して会社を起こして見事に成功した例など枚挙にいとまがない。

これ偏に遠く天平の昔より間々田八幡宮のご加護を信じ、崇拝し、神社加護に力を尽くした氏子崇敬者の赤心(※せきしん 嘘いつわりのない、ありのままの心)に有難きご神徳が益々発揚されている証しであろう。
11 小山市 白鳥八幡宮
2020.10.20

12 栃木市 藤岡町 部屋八幡宮
2020.10.20

■栃木県神社庁のホームページには・・・
当神社は、慶長年間(1596~1615)に豊前大分の宇佐神宮を奉遷したのを創始とする。
鎮座する部屋地区は下野と江戸を結ぶ水運の中継地として栄え、かつて神社の前には巴波川が流れ(巴波川は河川改修したので、現在は川の名残が残った状態)、船旅の安全を願う人々が参拝し地域交流の中心でもあった。

境内には船頭見習いになるテスト(力くらべ)を受けたという県内外から寄進された力石が十数個(実際は12個)置かれ、船中安全の刻字のある鳥居や、舟方たちが寄進した狛犬、賽銭箱などが残され、拝殿前には樹齢四百年以上とみられる銀杏の神木一対が聳えている。

※境内の大木は上部のほうが伐採されています。
※この八幡宮は藤岡町部屋の字名が宇佐宮というところにあります。
13 加園八幡宮(鹿沼市加園)
16.5.11
「八幡宮」は加園の鎮守で、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、祭日は2月15日、創立については明らかではありません。もと八幡越路に祀られていましたが、明治43年(1910)11月、「星野宮大権現」と称されていた、「神園神社」(祭神磐裂命(いわさくのみこと)に遷座されました。本殿は全面彫刻で飾られています。

14
南大通り八幡宮(宇都宮市)
18.7.19
空襲で焼失してしまい、仮の宮のようです。いずれ再建されるのでしょう。境内はかなり広い。
15 西木戸八幡宮(真岡市 旧二宮町)
16 北中八幡宮(益子町)
23.11.14

17 千代ヶ岡八幡宮(真岡市久下田)
2020.10.1
18 長堤八幡宮(益子町)
2020.10.1
19 ■藤岡八幡宮(栃木市 藤岡町)
19.12.6
20 ■独鈷沢八幡宮(日光市 独鈷沢)
19.7.29

21 ■大町八幡宮(栃木市 大町)
18.11.17
22 ■壬生町 藤井八幡宮
17.10.14
23 ■壬生町 羽生田八幡宮
16.4.11
24 ■佐野市田沼町 田原八幡宮
21.9.21


25 ■小山市小宅 八幡宮
18.5.17
26 ■茂木町 河井八幡宮
20.2.2
27 日光市 湯西川納八幡神社
17.10.28
28 日光市 湯西川釜八幡神社
17.10.28
29 栃木市 藤岡町 石川八幡宮
2020.10.20
30 足利市 丸山町八幡神社
19.12.19

31 鹿沼市 下粕尾 大越路 八幡宮
2001.10.13
32 さくら市 櫻野八幡宮
19.1.22
33 佐野市 赤見八幡宮
19.11.15

34 栃木市 千塚八幡宮
24.4.13
35 栃木市都賀町 大橋八幡宮
17.9.13
36 栃木市都賀町 木八幡宮
37 栃木市都賀町 家中八幡宮
17.6.6

38 下野市 本吉田八幡宮
17.11.19
旧南河内町

■説明板・・・
●八幡宮 
この八幡宮は誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)を祭神として祭ってあり、文治4年(1188)11月に小山城主小山朝政(ともまさ)が、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮を勧請(かんじょう)して建立したとされている。
元亀2年(1570)当時結城城主だった結城晴朝(はるとも)は、当所に別館を建て当八幡宮を守護神として社殿を改築し、その時に祭田も増加された。
その後徳川家光により更に4石の御朱印地が寄進されており、明治40年には指定郷社となった。
本社境内には、愛宕・浅間・雷電・八坂神社などが祭られている。
昭和62年3月 南河内町教育委員会
39 栃木市西方町 元八幡宮

40 栃木市大平町 西山田八幡宮
日光市 八幡神社
(飛石(とびいし)八幡)

17.6.26
■説明板・・・
●八幡神社(はちまんじんじゃ)
天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)日光を開いた勝道上人(しょうどうしょうにん)が、ここに草庵を結んでいたとき、天から、丸石が飛んできて「八幡大自在である。国家守護のために来た。」という夢を見たので、「飛石(とびいし)八幡」として祀ったと伝えられる。寛永年間(1624-1643)徳川家光が幕府の修繕社とした。中本町(なかほんちょう)と原町(はらまち:現在は本町第三と安川町(やすかわちょう))の氏神で祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)である。正月三が日の後の日曜日に五社祭(磐裂、青龍、八幡、花石、久次良の各社)、11月23日に例祭が行われる。
大田原市 福原八幡宮
25.4.16
■説明板・・・
●福原八幡宮本殿(ふくはらはちまんぐうほんでん)有形文化財(建造物)昭和44年10月1日指定
創建年代は定かではありませんが、貞享(ていきょう)2年(1685)社殿を修復し、更に寛政(かんせい)2年(1790)修築して現在に至っております。本殿は流造り(ながれづくり)、銅板平葺(どうばんひらぶき)で、壮麗(そうれい)、彫刻の手法もすぐれています。この神社は、明治2年(1869)の神社分離前(じんじゃぶんりまえ)までは、福原金剛寿院(こうんごうじゅいん)と同一の神仏混合社(しんぶつこんごうしゃ)でした。金剛寿院には、寛政2年社殿修築の棟札(むねふだ)が残されています。
大田原市教育委員会

壬生町 上新町八幡神社
19.3.26
矢板市 下太田八幡宮
19.12.2
真岡市 阿部品八幡宮
20.4.4
鹿沼市 上久我八幡宮
蕎麦店の近く
壬生町 通町二薬師堂・八幡宮
19.3.26