■説明板・・・
鎌倉第三代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(1219)拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行い、帰途公暁(くぎょう)に殺され、28歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。実朝は、14歳のときより歌を詠み、万葉集・古今集・新古今集を愛読した。特に万葉集は重宝として賞翫(※しょうがん:そのもののよさを楽しむこと。珍重すること。)また、中央歌壇の巨匠藤原定家に教えを受け、歌を愛する武士との結びつきも、不朽の業をなす基となった。実朝の歌は各種の歌集にのせてあるが、「金槐和歌集」は実朝の歌集として名がある。この歌集に「霰(あられ)」と題して、
もののふの矢並み(やなみ)つくろふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原(しのはら)
が入集している。これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌で、万葉調でしかも実朝の歌境がよく表現されている。賀茂真渕も「人麿のよめらん勢ひなり」と称えている。
芭蕉の里 黒羽 |