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壬生町の概要 壬生町は、関東平野の北端を占める栃木県の南西部に位置します。町は扇子(せんす)を半分開いたような南北に長い円形の地形です。南部は平坦ですが、中央部から北部の鹿沼・宇都宮両市の境にかけては、多くの侵食谷が形成されています。標高は約50m〜100mあり、南の平野部と北の台地部とでは、比高差が50m程あります。また、当町は、近世において「河岸」が発達したことからもうかがえるように、水に恵まれた地域にあり、町の西部を思川、中央部を黒川、東部を姿川がそれぞれ南流しています。 つぎに、壬生町の歴史をひもとくと、恵まれた自然環境を背景に、原始・古代から多くの人々が暮していたらしく、町内各所から当時の人々の生活の跡である遺跡が確認されています。 特に、縄文中期から晩期にかけての大遺跡として、町北部の「上田遺跡」・中央部の「八剣遺跡」があります。また、古墳時代には壬生町を含む姿川と思川にはさまれた地域に多くの古墳が築かれ、当地域が「下毛野国」の一中心地であったことを現在に示しています。今でも町内に残る国指定史跡「茶臼山古墳」「車塚古墳」をはじめとする大きな古墳は、当時の権力者の力を誇示するかのようにその姿をとどめています。 戦国時代になると、寛正3年(1462)壬生彦五郎胤業が都から下向し、当地に城を築いたといわれています。壬生氏は五代にわたり、約130年間当地を支配しましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏と共に滅びました。 江戸時代に入り、壬生は、日根野・阿部・三浦・松平・加藤・鳥居の各大名により、明治維新となるまで治められました。これらの歴史を背景に、城下町として、また、日光西街道(壬生通り)の宿場として栄え、今日の壬生町の基礎が築かれました。しかし、明治の新時代を迎え、旧幕府軍と新政府軍(官軍)との戦場になるなど、苦しい時代もありましたが、幾たびかの変遷を経て、昭和30年現在の壬生町が生まれました。 壬生町は、栃木県の特産品である「かんぴょう」発祥の地でもあります。その歴史は、江戸時代にまでさかのぼります。当藩主鳥居忠英が、前任地の江州・水口から「かんぴょう」の種子を取り寄せ、領内に試作させたのが始まりといわれています。現在も当町で盛んに作られ重要な農産物となっています。 このように、壬生町は、地理的環境に恵まれるとともに、歴史的にも、原始・古代の昔から今日に至るまで、脈々とその時代を輝かしく綴ってきた、県内でも数少ない由緒ある町です。 ちょっと調べる 江州(ごうしゅう:近江の国の異称→滋賀県)水口・・・現在の滋賀県に甲賀市水口町(みなくちまち)水口という地名がある。水口宿は東海道五十三次の宿場町である。 |
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参考に載せておきます。 【みぶ わが町の史跡を訪ねて】 第4版 平成17年3月1日発行 発行 壬生町教育委員会 編集 壬生町立歴史民俗資料館・・・・・ あいさつ 壬生町には、原始・古代の大昔から数多くの文化遺産が残っています。 また、町内の各所には、地元の人々により言い伝えられ、手厚く保護されてきた伝説の地もたくさんあります。 しかし、このような史跡や伝説の地を訪れようとしても、場所がわからず見学をあきらめてしまう人や史跡めぐりの事業に参加し、町の史跡を初めて知る人も多いことと思います。 このようなことから、壬生の方にはもう一度郷土の歴史を再認識していただき、町外からの見学者の方々にも、壬生をよく知っていただく意味から、平成元年度より本書を作成し、再版を重ねてきました。 本書が、多くの方の史跡めぐりに役立つとともに、文化保護の一助となることを願うしだいです。 最後に、本書の作製にあたり、ご協力を賜った方々にお礼申し上げます。 平成17年3月 壬生町立歴史民俗資料館 |
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