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●足利市の風景   現 栃木県足利市
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光得寺 臨済宗  19.11.13
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■説明板・・・
●臨済宗 菅田山 光得寺
寺伝によれば、開山は、鑁阿上人勅諡(ちょくし:勅命によって諡(おくりな)を与えること)赤御堂八幡大菩薩(足利義兼公)、開基は光得寺殿正義大禅定門(足利義氏公)である。寺内にある厨子入大日如来座像、五輪塔、寺外墓地地蔵堂の黒衣地蔵は、開山、開基、足利氏、及び樺崎八幡宮、法界寺に縁のものであるが、明治時代に当寺に移されたと考えられている。現在の臨済宗の法系は、元禄年間の中興霊室慧苗和尚以降伝わったと思われる。詳細については、明治元年の火災等により古文書を焼失しているため不明である。
19.11.13撮影 晴れ
 五輪塔は保存処理のため、この時は見ることができなかった。
■説明板・・・
●建造物 光得寺五輪塔 19基
時代 鎌倉〜室町
もと、樺崎の法界寺(ほうかいじ)跡(樺崎八幡宮境内)に建てられていたが、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:幕末から戦中にかけて行われた仏教排斥運動。)によって現地に移された。現在、光得寺境内の西側に一列状に並び、総じて南が大形で北に行くほど小形になっている。この五輪塔の総高は163から90センチメートルで、形態としては南の大形のものほど水輪(すいりん)が大きく、鎌倉時代の作とみられるが一部に南北朝時代、室町時代に及ぶものもある。水輪や地輪(ちりん)にみられる四仏などの種字(しゅじ)も見事な薬研彫り(やげんぼり)で重みを増している。
塔群中に「月海円公大居士 慶安(けいあん)四年(1651) 辛亥(かのと・い)三月二十九日」「前武州大守道常大禅定門 観應(かんのう)二年(1351)辛卯(かのと・う)二月二十六」の銘が判読できるものがある。月海円公大居士は南遠江守宗継(みなみとうとうみのかみむねつぐ)、前武州大守は武蔵守高師直(むさしのかみこうのもろなお)を指すもので両者とも足利尊氏の重臣であり、同族でもある事から同じ所に供養塔が建てられたものであろう。
(昭和34年2月17日指定)
平成2年12月15日
財団法人足利市民文化財団 足利市教育委員会