・・・・・那須町の風景・・・・・ |
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史跡 殺生石 7 25.5.28 |
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■説明板・・・
●那須温泉
那須は温泉に恵まれており、湯本鹿の湯をはじめ大丸・北・弁天・高雄・三斗小屋・旭・八幡・新那須・飯盛など数多くの温泉があります。中でも那須湯本鹿の湯の歴史は古く舒明天皇の御代(奈良朝630年)に狩野三郎行廣が、白鹿にみちびかれて発見したということです。正倉院古文書駿河国正税帳(しょうぜいちょう)に、奈良朝時代の貴族が湯本温泉に湯治に来たことが記載されており、古くから湯治の場として親しまれ今日に至っております。左の絵は、明治38年ごろの湯本温泉を描いたものです。
環境省・栃木県 |
■説明板・・・
●殺生石(せしょうせき)と白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)の狐伝説
・石の香や 夏草赤く 露あつし 芭蕉(※松尾芭蕉)
・飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上 麻父(※芭蕉の門弟の門弟らしい。以前は殺生石園地に句碑があったらしいが、今回見たところ見つからなかった。)
・あわれさや いしを枕に 夏の虫 桃隣(※天野桃隣 芭蕉の縁者らしい。)
殺生石は、白面金毛九尾の狐伝説(九尾の狐伝説)として知られ、インド、中国そして日本の三国にまたがる雄大な歴史を背景に、美女や妖怪、宮中人などが登場する怪奇で広大なスケールとして描かれています。また荒涼たる殺生石の情景は多くの文人たちによって数多くの文学作品として紹介され、全国的に知られる史跡の一つとなっています。話は、平安初期の鳥羽帝の御代、「玉藻の前」という美女に化身し、帝の寵愛を受けるようになりました。帝の命を奪い、日本を我がものにしようとした玉藻の前は、陰陽師安倍泰成(※あべのやすなり=阿部泰成)によってその正体を見破られ、白面金毛九尾の狐の姿となって那須野が原へ逃げ込んだのです。これを知った朝廷は、上総介広常、三浦介義純の両名に命じ九尾の狐を退治させました。狐は死して巨石と化し、その怨念は毒気となって近づく人や家畜、鳥獣をも殺し続けたのでした。室町時代になって、これを伝え聞いた名僧源翁和尚はこの地を訪ね、石に済度・教化を授け、持っていた杖で一喝すると、石は三つに割れ、一つは会津へ、一つは備前へと飛んでいき、残った一つがこの殺生石であると伝えられています。殺生石は室町時代の「下学集」に初めて登場し、その後謡曲「殺生石」が書かれ、江戸時代には歌舞伎等の演劇の題材として上演され、日本国中に知られるようになりました。元禄2年(1689)、芭蕉がおくのほそ道で湯本を訪れたのも殺生石を見るためでした。殺生石は、これより賽の河原を経て300メートル奥にあります。現在でも風のない日はガスが漂いますので御注意ください。
那須町
※はわからないので調べてみました。
※岡山県真庭市勝山の玄翁(=源翁)開山の化生寺にも殺生石があるようです。
※福島県白河市常在院にも殺生石があるようです。
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