・・・・・那須町の風景・・・・・ |
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史跡 殺生石 4 25.5.28 |
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■説明板・・・
●教傳地獄の由来
第96代後醍醐天皇の御代(1318)の頃、奥州白河在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり、「教傳」と言う住職がおりました。この教傳は生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとしてこの寺に預かってもらいました。その教傳も28歳になって、前の住職の跡をつぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。元亨元年(1336?)のことです。教傳は、2・3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。教傳は、母が朝食を用意してすすめると教傳はまだ旅仕度も出来てないのにと悪口を言いながら、お膳をけとばしてそのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傳はある日殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと今まで晴れわたっていた空が、俄かに(にわかに)かきくもり雷鳴が天地をゆるがし、大地から火炎熱湯が噴き出し、連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことが出来ませんでした。ふり向いて見ると「おれは寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く」と教傳が大声をあげ苦しみもがいております。友人がかけ寄り助けようと引き出したが、教傳の腰から下が、炭のように焼けただれており息をひきとってしまいました。それからも教傳が引き込まれたところには泥流がフツフツと湧いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまった。その後、湯本温泉の有志が享保5年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後を絶たなかったと言うことです。
那須町観光課・那須観光協会 |
↓教傳地獄 |
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↓芭蕉句碑 「いしの香や なつ草あかく 露あつし」 芭蕉翁
と書いてあるそうです。 |
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↓昭和五十五年国立劇場十二月歌舞伎公演
玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)
上演記念参拝之碑
当時出演された歌舞伎役者の名前が刻まれています。
ネットで調べると名前がわかります。 |
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