烏山一覧へ
●烏山町の風景       栃木県那須烏山市
宮原八幡宮
烏山町一覧 ホーム

20.5.21
地蔵堂・・・山あげ祭終了・・・南 子供神輿・・・八雲神社参道・・・泉渓寺参道・・・金井町屋台・・・中央交差点風景・・・中央町御仮殿・・・山あげ道具運搬隊・・・中央町 西方面風景・・・中央町風景土蔵・・・山あげまつり舞台裏・・・円応公園・・・中央公園駐車場・・・祭礼幟旗・・・鍛冶町会所からの風景・・・南 風景・・・鍛冶町屋台・・・中央町会所子供神輿・・・旧跡の碑・・・八雲神社・・・旧烏山町役場・・・旧役場前の風景・・・烏山女子高等学校・・・山あげ会館出店・・・あたご自治会子供神輿・・・妙光寺・・・一乗院・・・極楽寺・・・宮原八幡宮・・・寶照寺・・・佛行寺・・・千手院・・・石灯籠 宮原八幡宮・・・毘沙門山方面・・・yobi・・・那珂川 落石22.11.30・・・境橋下流22.11.30・・・烏山大橋22.11.30・・・宮境橋記念碑・・・木戸不動尊・・・国見の棚田・・・国見峠周辺・・・川戸地区標示・・・小木須地内・・・寳蔵寺・・・花立峠周辺1・・・花立峠周辺2・・・境橋周辺・・・清水地蔵尊・・・落石
●案内
この碑は、「圃租法(ほそほう:年貢のこと)変更記念碑」といい、当地方の農民が、明治2(1869)年から翌年にかけ、
圃祖法の変更を求めた農民一揆を記念して建てたものである。
江戸時代、烏山藩は46ヶ村の村々を支配していたが、そのうち20ヶ村は畑年貢を金で、残りの26ヶ村は米でと、納め方が違っていた。
圧倒的に畑地が多かった当地方において、安政5(1858)年の横浜開港にはじまる米価の暴騰は、金納の村と比して米納の村々に数十倍もの負担を負わせるものとなった。
そのため、米納の村々は惣代をたて、新政府に訴えを起こしていった。
長期の闘争にもかかわらず成功にはいたらなかったが、私利私慾をすて、農民のために犠牲的に闘った多くの惣代たちに対しては、事件終了後も、惜しみない支持と共感が寄せられ明治35(1902)年、碑文建立に成功したものである。
下野烏山農民一揆記念会