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●大平町の風景         栃木県栃木市大平町


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 25番

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■説明板・・・
●下野三十三観音霊場25番札所 如意輪寺略縁起
当山創建の由来は、宝亀元年(770)9月、人皇48代称徳(しょうとく)天皇御崩御の砌(みぎり)、大僧正道鏡(弓削道鏡)法印を下野の薬師寺の別当の任に補し、称徳天皇の皇子英(はなぶさ)親王は家臣野原、竹ノ内の士を従え、奥州国府へ遷座の途中この富田の地を訪れたことに始まる。親王は長旅の疲れで御下向になられ、この地に寓居(ぐうきょ)を構え、堀を巡らし薬草を栽培して家臣と共に暮らされたが、2年後の宝亀3年(772)9月18日御薨去になり、下野国府の援助により山田の里東南に御陵が造営された。これが後世七廻り塚と号する古墳である。その後、天慶(てんぎょう)元年(938)2月、俵藤太秀郷(藤原秀郷)侯は皆川村に当寺の旧称である摩尼珠山釈迦尊寺を建立され、、親王の御霊に調伏を祈り、真弓と蔵井の庄園を寄付して当山の開基と成られた。

皆川村の釈迦尊寺は延徳2年(1490)2月英親王縁りの、この富田の地に移され、称徳天の皇称を崇敬して金剛峯山東泉坊称徳院如意輪寺と改称され、第37第目宏祐和尚が中興開山の祖と成られた。中興開山から100年後の天正19年(1591)11月、徳川初代将軍家康公一行が当寺に御立ち寄りになり、境内を遊ばれ寺領10石を御直筆の上寄付され御朱印寺となった。その後元和6年(1620)伽藍は兵火により焼失したが、その後寛文9年(1669)に間口18間、奥行き9間の講堂等が再建された。御朱印は代々の将軍から頂戴されている。元禄9年(1696)12月、江戸の護持院惣禄隆光大僧正より護持院法流が相承され、護持院直末寺となった。この頃の当山は、20数ケ寺の末寺を持ち、寺格常法談所として諸流の法脈を伝える道場でもあった。また境内地だけでも13000坪もあり、富田宿の脇本陣として例幣使街道沿いの徳川家縁りの寺となった。さらに、元禄13年(1700)3月には徳川五代将軍綱吉公の母君桂昌院様の御寄進により尊像と観音堂が建立された。後に山門、鐘楼等が建立され、境内も様々な建造物が甍を併べた大殿字となった。その後、隆昌を極めた当山は嘉永4年(1851)11月19日の富田宿の大火により、講堂、観音堂、大門、薬医門、冠木門、鐘楼、先師位牌所、僧堂、永宮大明神の社等は悉く(ことごとく)焼失したが、本尊と古文書は火難を免れ今に伝えている。二度の災害に襲われた当山は、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈や大戦後の農地改革等により寺領境内は減少したが、歴史と法灯を護持継承する古刹として現在に至っている。