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宇都宮市 大谷寺 |
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25.12.13
■大谷寺拝観券には・・・
●弘法大師が洞穴に刻んだという、日本最古の石仏。歴史が織りなす神秘の世界が大谷寺に生きています。
特別史跡・重要文化財・名勝(国指定) 坂東十九番札所
日本最古の石仏(平安時代) 大谷観音
●大谷観音の縁起
その昔、この辺り一帯は大小の岩が、まるで屏風のようになっていて、その中は広く平らに広がり、大谷と呼ばれていました。岩下からは水が湧き出して川となり自然が作った城のようでした。この中には毒蛇が住んでいて、時々毒水を流れ出し鳥獣虫魚がこれに触れると、たちまち死んでしまったため、ここを地獄谷と呼んでいました。
人間がこの水に触れると病気になり、最悪の場合は死に至り、五穀は枯れ、草木もしぼみ、人々は苦しみ、この地を捨てようとしていました。
時に大同、弘仁(810〜)の頃、弘法大師が東国巡錫の折この話を聞き、里人のうれいを除こうと毒蛇の谷に入って行きました。人々はこれを聞いて喜びました。十余日の後、谷から大師が出てきて、毒蛇を退治したと告げて立ち去って行きました。人々が谷の奥に入り中の様子を見ると、高い岩山に千手観音が光輝きそのわきだちには不動明王と毘沙門天が彫ってありました。この三尊の光明は山谷を一面金色に変えました。人々は弘法大師の不思議な力に感謝し、大師の修行を貴み観世音に帰依して仏教を信仰する者が増えました。これが大谷寺の初まりです。
今、池の中央に弁才天が祭られています。かの毒蛇が心を入れ替えて白蛇となり、お仕えしています。参拝後には、白蛇の頭にも軽くふれて下さい。
※私のところ鹿沼市から比較的に近いところにあるお寺です。拝観しての感想は「何か重いものに圧し掛かられていて息苦しい」感じでした。
どうしても頭上の岩が迫り出しているため、頭がムズムズします。そしてタコがサザエに襲い掛かるような構図に見え、「ゾッ!」とします。忘れることはできません。
・・・拝観するときは度胸が必要です。だからありがたいのかもしれません。今まで拝観してきたお寺の中では恐怖度★★★★★のお寺でした。天台宗のお寺は赤い印象があります。堂内の石仏もしっかり記憶に残っています。 |
宇都宮市 平和観音 |
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27.4.2
■説明板・・・
●大谷公園
市街地の西約7kmにある宇都宮県立自然公園内に位置します。元々は特産の大谷石を産出する採石場でしたが、世界平和を祈念した平和観音が刻まれた後に、昭和31年に開園しました。周囲の起伏に富んだ地形と松や広葉樹の自然林と相まって、独特の景観をかもし出している異色の公園として、多くの観光客に親しまれています。公園中央にはカエルの後ろ姿に見える「親子がえる」があり、参道の岩壁には、天狗が投げたという伝説が残る「天狗の投石」や巨大な石臼のような「スルス岩」などの奇岩があります。また平和観音の左側の階段から頂上に登る展望所では、平和観音の目線で名勝の指定を受けた御止山(おとめやま)や大谷の景観などの眺望を楽しむことができます。ここ大谷公園は、石像、採石場跡、奇岩などがあり、大谷全体の景観をコンパクトにまとめた公園です。
■説明板・・・
●平和観音
大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93m(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い(とむらい)世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立(おまえだて)として彫刻されたものです。戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導ものと、大谷町の石工・上野波造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。
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宇都宮市 大谷 天狗岩 |
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27.4.2
■説明板・・・
●奇岩群(スルス岩・天狗の投げ石)
大谷の人々は、大谷地区に点在する奇怪(きかい)な形をした岩に名前を付けて呼んでいました。大谷公園の中には、岩の中央に横に亀裂が入り磨臼(すりうす)のような形をした「スルス岩」と伝説では大谷の南に位置する戸室山に住んでいた天狗が、大谷に向かって投げた巨石が、崖の上でバランスを保ち止まっている「天狗の投げ石」があります。このほかにも大谷には「鶴岩」、「亀岩」、「兜岩(かぶといわ)」、「ダルマ岩」などの奇岩群が点在しています。これらの奇岩は古くは観光名所として紀行文や絵葉書などに登場しています。 |
宇都宮市 大谷資料館 |
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27.4.2
大谷石採掘場跡です。
地下空間の温度は10度くらいでしょうか。寒い。短時間であれば我慢ができますが、長時間となるとなにか上着がないときついですね。
閉所恐怖症の人には見学するにはつらいところです。 |
宇都宮市 越路岩 |
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23.11.30
■説明板・・・
●国指定名勝 大谷の奇岩群 越路岩 ▲所在 田下町 ▲指定 平成18年7月28日
越路岩は姿川に沿った奇岩群の北端に位置し、姿川が東向きから南向きに流れを大きく変える地点の右岸にそびえる独立奇岩です。特に北東や北に広がる田園を介した眺望に優れており、水面に姿を映し出し、あたかも奇岩が海面にそびえ立っているように見えることから「陸の松島」と呼ばれ大谷の奇岩群をコンパクトに表した景観です。
岩の下は遊歩道になっている。歩いていて気持ちのいいものではありません。頭上に岩があるのでその場から逃げ出したい感じでした。こんな時地震なんかが発生し、岩が落ちてきたら最悪です。 |
宇都宮市 逆木用水 |
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25.4.16 ■説明板・・・
●逆木用水(さかさぎようすい)のご案内
この看板の下を勢い良く流れているのが「逆木用水」です。逆木用水は「小倉米(こくらまい)等」で有名な米どころ約3500haの水田をかんがいする用水ですが、ここから約6km上流・塩谷町船生の佐貫観音(さぬきかんのん:国指定史跡)近くに造られた「佐貫頭首工(とうしゅこう):堰(せき)」から取り入れられます。鬼怒川右岸には、木杭や蛇篭(じゃかご)等で造られた4つの用水堰があり、高間木(こうまぎ)用水、逆木用水、根川用水、東芦沼用水を取り入れていました。洪水時に導水堤や堰が災害を受け、必要な水量の確保や施設の管理・普請に大変な苦労が必要でした。昭和20年代の半頃、五十里ダムや川俣ダム等洪水防止を目的とするダムの建設が進められるのを契機に、堰の代表者達は堅固な堰をつくりたいと「西鬼怒川土地改良区」を組織して対岸の5つの用水堰の代表者達と話し合い、国営(当時農林省)事業を推進することとして9用水堰の意向がまとまり、昭和28年(1953)には「鬼怒川中部土地改良区連合」が設立されました。以来、国営事業は、昭和32年に着工して、佐貫頭首工と9ケ所の用水堰とを結ぶ21.5kmの導水路を建設し、昭和41年に完成しました。
佐貫頭首工で取り入れられた用水は、トンネル等5.6kmの「導水幹線」で生まれる落差で「栃木県営風見発電所」が発電した後、鬼怒川左岸に開ける約5300haの水田を潤す市の堀用水や草川用水等の「東幹線水路」と逆木用水等「西幹線水路」とに分かれ、逆木用水は鬼怒川の底をサイフォン(暗渠(あんきょ))で渡って、ここで顔を出すことになります。この逆木用水は、下流の東京電力「西鬼怒川発電所」でも利用されています。逆木用水の旧取り入れ口は、この堤防上流端の岩山をくり抜いて作られていましたので、その洞門入口跡を見ることができます。鬼怒川中部土地改良区連合は、現在左岸の塩谷町大宮・赤沼用水・鬼怒川東部・釜ケ渕土地改良区と右岸の西鬼怒川土地改良区の5つで組織されています。
鬼怒川中部土地改良区連合
西鬼怒川土地改良区 |
宇都宮市 上河内 発電所 |
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25.4.25
西鬼怒川(根川用水)にある発電所。水の流れがどのようになっているのか、全然わかりません。ただただ不思議な建物です。 |
深岩(山の名前) |
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鹿沼市 深岩
26.11.23
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佐貫観音岩 |
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塩谷町 佐貫観音
23.11.24
違和感を感じる大きな岩。倒れることはないと思うが、こればっかりはわかりません。 |
佐貫頭首工取水口 |
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塩谷町 佐貫頭首工取水口
23.11.24
ここに落ちたら最後ですね。つかまるところはないし、トンネルの導水管にのまれていくだけです。
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塩谷町 篭岩 |
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26.1.24
自然はなんと不思議なものをつくりだすのか。 |
塩谷町 観音橋周辺鬼怒川 |
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28.11.28
この周辺の景色は不思議としか言いようがありません。
この辺りは、川・山を含めて全て岩でできている。
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日光市 六方沢橋 |
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23.10.26
橋の欄干が低い時の画像です。いまでは、欄干がかなり高くなり、なんとなく安心できます。 |
日光市 金精山 |
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23.10.12
■金精道路の紅葉は最高です。23.10.12 |
日光市 第一いろは坂 大薙 |
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日光市 第一いろは坂 大薙
27.4.27
▼栃木県の土木遺産
と言われている所
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日光市 憾満が渕 |
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日光市 憾満が渕
30.10.17
水が多い時は怖い。
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日光市 分水井 杉並木公園 |
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日光市 分水井 杉並木公園
23.11.12
水を無駄にしないシステムです。 |
日光市足尾 足尾製錬所 |
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日光市足尾 足尾製錬所
19.9.25 |
日光市足尾 銅山観光 |
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日光市足尾 銅山観光
21.11.5
この時は私ひとりだったので、あまり気持ちのいいものではありませんでした。
■国指定史跡通洞坑
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日光市足尾 弾薬庫跡 |
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日光市足尾 弾薬庫跡
19.9.25
頭上の岩が怖い。 |
日光市藤原町 大滝公園 |
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日光市藤原町 大滝公園
21.11.21 |
日光市藤原町 龍王峡 大観 |
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日光市藤原町 龍王峡 大観
21.11.7
川幅の狭いところ。
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日光市藤原町 地蔵岩 |
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日光市藤原町 地蔵岩
23.10.27 案内板 正面の地蔵岩に鎮座いたします地蔵尊の云われ 1683年、M7.3の地震により男鹿川、湯西川合流点がせき止められダムができ、150日間で周辺部落が水没しました。また、1723年8月には、連日の暴風雨により五十里湖が決壊し、鬼怒川下流で大洪水が発生。この為、一万人以上が死亡する大きな被害をもたらしました。度重なる災害からこの地を守ろうと、1745年9月に村の守り神として地蔵尊が建立されました。 当初は岩の下の街道近くに設置されましたが五十里ダムの建設により水没を免れるため、当所に移動したと地元の方々が伝えております。隣には、馬頭観音が街道交通の安全を願い村世話人により立てられています。碑に記された意味は「弘法大師が修行したと言う言い伝えのあるこの聖地に家内(村の)安全を願い五十里村の人達が延享2年(1745)9月に立てた」
1723年にはすでに五十里湖があったのですね。馬頭観音はちょっと分かりませんでした。お地蔵様を祀ってある大岩は見ごたえがありました。 |
那須町 芦野 館山城址 |
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■説明板・・・石造り(台座設置協力 芦野石振興会)
館山城址(たてやまじょうし)
「館」は「たち」とも「たて」ともいい、国司(こくし)・郡司(ぐんし)などの官舎を意味し、多くは土塁や堀を巡らした城塞(じょうさい)をなした。地方豪族の居所(いどころ)をいう。館山の地名は、現在の千葉県にある里見氏(さとみし)の居館跡(きょかんあと)や那須与一誕生の地(なすよいちたんじょうのち)と伝えられている「高館城(たかだてじょう)」が知られている。
芦野氏第2代の城館(じょうかん)である「館山城(たてやまじょう)」は、切り立つ岩山の丘陵地形を利用した要害(ようがい)で、前館(まえたて)、中館(なかたて)、後館(うしろたて)に区分され、東側を流れる菖蒲川(しょうぶがわ)を天然の堀とした極めて堅固な山城である。山頂や山腹には土塁や郭跡(くるわあと)の遺構がわずかに残っている。芦野の地は奥州との境に位置し、室町時代には北に白河結城氏、東に佐竹氏、南に宇都宮氏と対峙し、抗争を繰り返した。この城の築城は応永(おうえい)年間(1394-1428)と伝えられている。この時期は、個人戦法から集団戦法への変化に伴い、武士の居館が平城(にらじろ:芦野氏居館)から山城へと移行し、戦略的な変革時期でもある。
その後、狭隘(きょうあい)な地形と飲料水などの条件から、戦国時代の天文(てんぶん)年間(1550年頃)に、東方にある御殿山(ごてんやま:芦野城)を築城し、移転したと伝えられている。この間(約150年間)、芦野氏はこの地を拠点に那須氏の一翼として活躍したのである。江戸時代以降、廃城となった館山城は、芦野石の石切場となり、その面影をしのばせている。ここに、芦野八景の一つ「八畳石(はちじょういし)」があったが、芦野小学校建設の時にその礎石として利用され現在はない。
芦野石は国道294号線沿いの地域で産出される地場産品である。準硬石(じゅんこうせき)で加工がしやすく、石塔・墓地外柵(ぼちがいさく)・倉庫・石塀・門柱などに使用され、現在は、公園・広場の敷石にも幅広く利用されている。
芦野地区地域づくり委員会・那須町
※頭を連想させる寂しさ。 |
那須町 殺生石 |
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那須町 殺生石25.5.28
■殺生石園地案内板・・・
●殺生石
周囲には火山特有の有毒ガスが噴出しており、近づいた小動物のほとんどが死んでしまうことからこの名がついた。九尾の狐伝説の残る名所。「九尾の狐伝説」物語は今から約3,500年前。中国、インドを荒らしまわった九尾の狐は、やがて日本に渡って「玉藻の前」という美女に変身し、帝の寵愛を受けるようになりました。帝の命を奪い日本を我が物にしようとした玉藻の前でしたが、占い師の阿部泰成(※安倍泰成?)によって正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだところを、当時の武将、上総介広常、三浦介義介によって討ち取られました。狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって近づくものすべてを殺し続けました。時は過ぎ、これを聞いた名僧源翁和尚がこの地を訪ね、持っていた杖で石を一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津に、1つは備前へと飛んでいき、残った1つが殺生石だと伝えられています。
那須町
■案内板・・・
●殺生石と松尾芭蕉(まつおばしょう)【1644-1694】
元禄2年(1689)この地を訪れた俳人芭蕉は、紀行「奥の細道」に次のように記(しる)しています。
「殺生石は温泉(いずゆ)の出づゆ山陰(やまかげ)にあり、石の毒気(どくけ)いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(まさご)の色(※地面の砂の色)の見えぬほど重なり死す。」
この様子から、当時は、相当の火山性ガスが発生していたと思われます。また、この地に残した一句を紹介しましょう。
「石の香は夏草赤く露(つゆ)あつく」
現在は、ガスの噴出量は少なくなっているものの、硫黄色を残した巨石群と噴気は、往時の雰囲気を漂わせています。
栃木県
・・・火山性ガスは硫化水素、亜硫酸ガス。
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大田原市黒羽 高岩園地 |
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25.4.16
この岩は大きな入れ歯を連想させる。なんとも不気味。
※令和2年夏、この岩の近くで水難死亡事故があった。
なんとなく危険な感じがするところ。 |
大田原市 佐久山 分水井 |
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大田原市 佐久山 分水井
25.4.16
近くには川は見当たらない。突如としてここの円柱コンクリートの中に水が湧き出しています。どこからここまで水を引いてきたのか、土木の力はすごいですね。 |
宇都宮市 長岡の百穴古墳 |
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宇都宮市 長岡の百穴古墳
19.5.12 ■説明板・・・
●栃木県指定史跡 長岡百穴古墳 52基 昭和30年7月26日指定
凝灰岩露頭の斜面に掘り込まれた横穴群は、現在52基(東群44基、西群8基)が南を向いて開口している。しかし、重複して掘り込まれたものもあり、実際はもっと多くの横穴があったことは確実である。
これらの横穴の基本形態は、羽子板型の玄室から玄門を経て直接前庭部へ続くもので、、羨道(せんどう)に当たるものはみられない。
玄室の奥壁はアーチ型でほぼ垂直であり、玄門もほぼ同じ形で中央部が長方形にあけられている。玄門には扉石を嵌め込んだ(はめこんだ)とみられる切込みがあり、現在はないが、当時は、ほとんどの横穴に扉石があったであろう。
この横穴群の造られた時期は明らかではないが、全国的に横穴群が広がった7世紀前半と位置付けるのが適当であり、群衆墳のように家族墓的性格をもったものといえそうである。
なお、現在各室に観音像があるが、これらは後世のものである。
栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会 |
那珂川町 御前岩 |
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那珂川町 御前岩
19.5.12 説明板・・・
奇岩 御前岩
今から約280年前(元禄5年)徳川光圀公が領内検分の折、御前岩をご覧になられると「これは誠に天下の奇岩じゃ」と驚かれて「かかるものを衆目にさらすことは、よろしからず」と土地の役人に命じて、御前岩の対岸に竹を植えさせました。
この竹を腰巻竹と言って、県道から直接には見えないようさえぎられております。言い伝えによると、当町大字大内久通地区に淵があり、サイマラ淵と名付けられており、川岸には巨大な男根石があり「オンマラ様」と呼んでおります。その「オンマラ様」は、明治の末期に大洪水があったとき、哀れにもくずれてサイマラ淵に沈んでしまいました。それを知った御前岩は悲しみのあまり、霊水の変化は見られなかったと言うことです。
御前岩の上には小さな祠があって、そこには木や石で作った男根が奉納されており、祈願されますと子宝・安産・婦人病・五穀豊穣・商売繁盛・健康長寿に大変御利益があると言われております。かの有名なアメリカのインディアナ大学、性研究所の所長ポールゲブハート博士が1976年10月16日に訪れ、非常に興味深くご覧になられました。
1987年8月
那珂川町観光協会 |
那須塩原市 那須疏水 旧取水口 |
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那須塩原市 那須疏水 旧取水口
25.4.19
■説明板・・・
●建造物 那須疏水旧取水施設(なすそすい きゅう しゅすいしせつ)
国指定重要文化財(一部附指定)平成18年(2006)7月5日指定
この取水施設は、水に乏しい那須野ケ原開拓地の飲用・水田灌漑(かんがい)等を目的に建設された那須疏水の施設で、明治期有数の規模を誇る貴重な土木遺産です。
そのあらましは次のとおりです。
@東水門(第一次・第三次取水口) 明治18年(1885)建設
※明治39年(1905)・昭和3年(1928)増設
A西水門(岩崎第二隧道(ずいどう)入口) 明治38年(1905)建設
B導水路(どうすいろ)・余水路(よすいろ) 明治38年(1905)建設
C一号護岸(ごがん)、二号護岸、東三号・西三号護岸 明治38年(1905)建設
那須疏水は、内務省直轄(ちょっかつ)の国営事業によって開かれたもので、安積(あさか)疏水(福島県)、琵琶湖(びわこ)疏水(滋賀県・京都府)と並び、日本三大疏水の一つに数えられます。ここ那須塩原市西岩崎の那珂川(なかがわ)右岸から取水し、千本松に至る約16kmの本幹水路、4本の分水路とそこから分かれる多くの支線水路が、約1万haに及ぶ那須野ケ原の開拓地をうるおしました。最初の取水口は、明治18年(1885)に那珂川の絶壁にトンネルを掘って造られました(第一次取水口)。この取水口には水量を調節したり、土砂の流入を防いだりする開閉施設がなく、大水等によって取水口がたびたび使用できなくなりました。そのため、明治38年(1905)に約200m上流に取水口を変更し(第二次取水口)、使用されなくなった第一次取水口は予備の水門として石積みが行われました。
その後、川の流れが変わり、取水口は大正4年(1915)再び元の位置に戻されました(第三次取水口)。昭和3年(1928)には水量調節施設の設置、上部へのアーチ型の石積み等の増設が行われ、現在見られる石組の水門となりました。昭和51年(1976)、国営の那須野ケ原総合開発の一環として取水口が新設され(西岩崎頭首工(とうしゅこう)、第四次取水口)、かつての取水口は使用されなくなりました。旧取水施設は、当時の状態を良好に残しており、那須野ケ原開拓のシンボルとなっています。
平成19年(2007)3月
文化庁・栃木県教育委員会・那須塩原市教育委員会 |
日光市 細尾発電所 |
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日光市細尾 28.10.14
発電所で使用した水がプールに貯められている。
大きなプール。水深が深い。水がきれい。落ちたらどうなるのか。なんかぞっとします。 |
那須塩原市 野立岩 |
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那須塩原市 野立岩
21.10.19
■塩原温泉街の風景 国道400号線
■説明板・・・
●野立岩(のだていわ)
慶長5年(1600)徳川家康東征の先陣を承わり蒲生秀行(がもうひでゆき)が東会津街道(現在の塩原街道)を進軍のさい塩原に泊まる宿もなくこの岩の上で野宿し、一夜を明かし野立(身分の高い人が野外で休むこと)したところから、野立岩といわれている。
塩原町観光 |
那須塩原市 七つ岩 |
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那須塩原市 七つ岩
21.10.19 |
勝瓜頭首工(かつうりとうしゅこう) |
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真岡市 取水堰
25.1.27
勝瓜頭首工(かつうりとうしゅこう)
このような構造物は近くで見ると迫力がある。 |
真岡市 導水幹線水路 |
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真岡市 用水
25.5.15
導水幹線水路。
すごい水量で流れが速い。見ているとめまいがする。鬼怒川宮岡橋勝瓜頭首工(かつうりとうしゅこう)辺りから取水しているようです。
この水路に落ちたら最悪。直線で内側につかまるところがない。
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那須烏山 龍門の滝 |
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那須烏山 龍門の滝
18.7.22
この時の川の水量は半端ではない。大雨が降ったときはものすごい滝になるのでしょうね。
また、このような川の高低差はどのようにしてできたのだろうか。不思議。 |
小塙 荒川の河食 |
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那須烏山 小塙荒川の河食 25.5.10 ■説明板・・・
●小塙自然環境保全地域(こばなしぜんかんきょうほぜんちいき)栃木県指定
ここ小塙地域は、河川地形の河岸段丘(かがんだんきゅう)や穿入蛇行(せんにゅうだこう:穿入蛇行(せんにゅうだこう)とは、よく発達した滑走斜面をもち、蛇行状に曲がりくねった谷の中を流れる河流の状態のこと。)が発達している地域です。荒川の流れがS字を連ねたように蛇行しており、曲流の外側の河岸が浸食されることによって、河床(かしょう)から高さ約15mの崖が続く崖線(がいせん)が形成されています。
これは、河川による典型的な浸食地形であり、崖線の壁面には地層が連続的に露出し、海棲貝化石(かいせいがいかせき)や有孔虫化石(ゆうこうちゅうかせき)を含んだ新第三系中新世(しんだいさんけいちゅうしんせい)、荒川層群小塙層の凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)の互層(ごそう)が見られます。
この連続的に露出した崖線により、地層の層理(そうり)・層序(そうじょ)・地質構造が観察できるため、学術的・景観的にも優れたものとして、自然環境保全地域に指定されています。自然が失われつつある今日、このような素晴らしい自然が残っていることは、大変意義深いことです。この素晴らしい自然を次の世代に継承していきましょう。
指定年月日 昭和52年7月19日 指定面積 5.00ha
この標識は、マロニエ緑化基金(栃木銀行寄贈)により整備されたものです。
栃木県
※この崖の上に住宅が何棟かあります。そのほうが怖い。 |
佐野市 須花トンネル25.1.31 |
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■説明板・・・佐野市指定史跡 下彦間町須花
●手掘りの須花(すばな)トンネル 1本 平成6年2月21日指定
昔から飛駒(ひこま)、下彦間(しもひこま)方面から足利方面への交通には、険しい須花峠を通らなければならなかった。トンネルを掘って交通を便利にし、人々の苦労を救おうと決心した上彦間(現飛駒町)の戸長(こちょう:庄屋さん)田島茂平は、上彦間・下彦間・足利等の在住の協力者から資金援助を得て、明治14年(1881)工事を着手した。
しかし、当時のトンネル工事は、「げんのう」や「たがね」等を使う手掘り作業であったため遅々として進まず、資金はたちまち尽きた。しかしそれにもめげず、田島茂平は私財をなげうつなどし、明治22年(1889)1月、全長177mのトンネルを完成させた。時代に先駆けた発想でトンネルを掘った田島茂平の功績を顕彰する上からも、このトンネルは貴重である。
平成18年1月 佐野市教育委員会
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鹿沼市 豊年杉 |
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鹿沼市 豊年杉 推定樹齢650年、太さ10mを超える。
27.4.14
近くの日光神社にも太い杉がある。
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鹿沼市 地蔵ケヤキ |
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鹿沼市 地蔵ケヤキ25.11.25
■説明板
●栃木県指定天然記念物
勝願寺(しょうがんじ)の地蔵けやき
樹高 14m
胸高周囲 5.9m
推定樹齢 600年
この地蔵けやきは、全体が傘形で、盆栽のような形をしていて、特に、下部の姿に特徴があります。下部の幹の内部は完全に空洞化し、あたかも数本の木がくっついたように見えますが、一本の木からできています。この空洞内には二体の小さい地蔵が祀られていますが、これはその昔洞内で死んだ母子の霊を弔ったものだと言い伝えられています。
※ケヤキってこんな形になるんですね。 |
鹿沼市 満照寺 |
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鹿沼市 満照寺
岩をくり抜いたところにお堂の外側を造り、その奥に観音様を祀ってあるのでしょうが、なんともせりだしている岩の圧力に恐怖を感じます。ここで撮影した画像はほとんどがピンボケでした。 ■説明板・・・
●深岩山聖観世音由来
当山は平安時代の開基にして弘法大師諸国行脚の御時、当霊山に詣り感應道交(※かんのんどうこう:人々の仏を求める心と、それに応ずる仏の心が通じ合い、一つに交わること。)して救世の願いを立て深さ拾余間ばかりの巌窟の中、自然出現の本地身與(※ほんちみよ?)の院大日如来に礼拝供養の後、御長ケ(みのたけ)1尺3寸の聖観音を彫刻し給まうところなり。又左の洞(ほらあな)の水清浄にたたえたる処に弁財天を造立しついで巌窟の奥に七福即生の大黒天を刻し貧窮無福の衆生に福分を施与し給うところなり。その後明和乙酉4月竹姫様(徳川五代将軍綱吉の末娘)は当山の聖観音に帰依信心の心厚く御紋付の御斗帳御水引など永々御免下され、爾来今日まで弘法大師の御開基観世音示現の山として下野三観音と崇め、下野三十三観音の第30番札所として遠近の男女道俗群集して二世の願望を祈り、霊験誠に深甚にしてその御利生にあづからざる者なき霊地なり。
※往古より当山に伝わる、古文書による
深岩山満照寺には続けて3回いきました。3回行って3回とも写真が手ぶれを起こしてしまい、よく写っていませんでした。何故かお堂のところだけがブレます。
石段が結構きついせいかもしれません。お堂の前にたどりつくころには心臓がドキドキドキです。それと頭の上にせり出した岩のせいでの恐怖感なのでしょうか。いずれにしてもよく撮れなかったのは事実です。男坂、女坂がありますが、女坂で登ったほうがいいかもしれません。鹿沼三十三観音のなかでは一番きついところでした。案内板は3つありました。
下野三十三観音三十番札所になっています。
※この岩の洞窟は奥行があるようです。
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鹿沼市 長安寺 |
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鹿沼市 長安寺
石段に付いている、イワヒバ。登るときは、イワヒバを踏みつけないように注意しなくてはいけませんね。神経を使います。 |
鹿沼市 引田 岩戸神社 |
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鹿沼市 引田 岩戸神社
26.11.6
このようなところに神社を造ったのには、何か感じることがあったのでしょう。
岩の割れ間を見ていて、なにかがあの奥にいるとかんじたのでしょう。
たぶん神様は岩なのでしょう。 |
鹿沼市 虎岩 |
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鹿沼市 虎岩
26.11.23
大きな石があると不思議と見たくなるものです。石には人を引き付けるなにかがあると思います。 |
茂木町 木須川の洞門 |
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茂木町 木須川の洞門
25.2.21
■説明板・・・
●木須川の洞門
この洞門は茂木町牧野と小深の境界を南流する木須川の蛇行部をカットする形で掘削された河川のトンネル。木須川は那珂川中流に、北から注ぐ小河川。この中流域は河床が緩慢に隆起したので、入蛇行の地形が多い。木須川自身もこの付近で大きく蛇行し、那珂本流にも近いので、後者の泥濫(氾濫のこと?)時には逆流して来て被害が大きかった。そこで小深等の住民が組合を作り、長峰山の下を潜る洞門を計画。事業費4424円を集めて、明治44年(1911)工事開始、大正2年ようやく完成。その間安山岩質の硬い岩石であったので難行。火薬等を使ったので、死者1名、負傷者も出た。規模は長さ47m、幅15m、高さ2.6mであった。その結果水田1.5haの美田を得、道路も改修され、河北の農民に多大な恵みをもたらした。大正6年には東方に記念碑が建った。
※見た目は悪魔が口を開いているように見える。 |
茂木町 馬門滝 |
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茂木町 馬門滝
2911.19 ■説明板・・・
●那珂川県立自然公園 馬門の滝(俗称 箱滝)
馬門の滝は、那珂川の両岸の河岸段丘から流下する小さな滝が、侵食で次第に後退し、飯野地区から馬門地区まで遡ってきた幼年期の滝です。
両岸は安山岩が切り立つ天然の岩滝で、高さ7.6m、幅27.3m、かつては、ここから上流へ魚が遡れなかったということから、「魚止めの滝」とも呼ばれていました。
また、ここには水力発電所(大正期)があった所で、芳賀最初の電灯がこの滝より灯りました。 |
茂木町 鎌倉山 |
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茂木町 鎌倉山
23.11.14 説明板2つ
■鎌倉山は、那珂川県立自然公園内に位置し、動植物の宝庫です。山頂付近からは那珂川の清流とのどかな田園風景が一望でき、那珂川沿岸随一と言われるその眺めは、とちぎの景勝百選にも選ばれています。また、学問の神様として有名な菅原道真公を祀る菅原神社(天神様)があります。
環境庁・栃木県
■鎌倉山の雲海
鎌倉山では、山から下りてくる冷たい空気が暖かい川面に触れて川霧が発生するため、雲の海に山々が島のように浮かんで見える「雲海」と呼ばれる現象を見ることが出来ます。雲海は、冷え込んで風の無い晴れた早朝によく発生し、晩秋から初冬の日の出の頃(夜明けから2時間程度)が特に身頃で、朝日に染まる雲海は、まさに絶景です。
環境庁・栃木県
●鎌倉山216m。下をみるとクラクラします。頂上には10台くらい駐車スペースがある。 |
那須烏山市 木戸不動尊 |
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25.2.26
家に戻ってから、国土地理院の地図を見ると茂木町入郷地区、那須烏山市小原沢地区どちら側にも「木戸」という地名表記がありました。明治4年に茂木藩、烏山藩とも廃藩になっているので、当時の国境に関所のような木戸があったので地名として残ったのかな?などと考えてしまいます。その地名に不動尊をつけて通称「木戸不動尊」と言ってるのでしょう。
また、この不動尊の由緒がわからないので、ネットで情報を探したところ、創建がそうとう古い情報がありました。開山が今から1200年以上ということです。
また、創建が1467年(このはっきりした年数の根拠はわかりません。その後約500年間の情報なし。)その後、昭和、平成と不動堂の改修を重ね、今日に至っているようです。
創建等の歴史は以上ですが、いまから50年くらい前でしたら、周りの木々もまだ小さく、眼下の那珂川が一望でき、対岸の茂木町大畑・高畑集落を見渡せ、風光明媚なところだったのでしょう。また対岸の茂木町大畑・高畑集落からも、那珂川に浸食された崖の上にそそり立つこの赤い不動堂が見え、さぞご利益を感じとることができたことでしょう。
この不動尊からちょっと上流の茂木町大畑に、那珂川を眼下に見渡せる場所があり、そこに千体渕の説明板があります。
ちょうど立っている足元になります。対岸那須烏山市小原沢あたりから見ると那珂川に侵食された岩岩が仏様の姿に見える風景のようです。那珂川を川下りでもしないとわかりませんが、なんとか見たいものです。そのちょっと下流にこの木戸不動尊が建っているのです。
ネットには「厄除け不動尊」「パワースポット」とか「秘境の不動尊」という記載もありました
くるまで進入したら、行き止まり。帰りはバックで戻る。 |
日光市 五十里 示現神社 |
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日光市 五十里 示現神社
17.10.19
撮影時は拝殿がありました。が、その当時も建物が歪んでいました。その後ネットで確認したら、この拝殿は老朽化のため壊され、本殿だけになっていました。
ここが怖いと思ったのは神社にたどり着くまでの山道を歩いていた時、近くで獣の鳴き声をきいたからです。
クマが出そうなところなので、一人では行かないほうがいいでしょう。 |
日光市 首切り地蔵尊 |
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日光市 24.2.10 首切り地蔵
日光所野のゴルフ場丁字路から鬼怒川方面に行く道路があります。入って400mくらいで右側にあります。
日光指定文化財 史跡 首切り地蔵尊六地蔵尊経塔 昭和42年3月17日指定管理者
この首切り地蔵尊は受刑者の霊を供養するために建立されたものであり、刑場に地蔵尊を祀り受刑者の死後の安楽を祈念する風習は全国的なものであるが、今日までも昔日の姿を良好に止めている■■稀である。 受刑者は地蔵尊の前で罪状刑量を申し渡された後に地蔵尊前にて打首となり、首は道路沿いの曝台(さらしだい)に7日間曝され、その後は縁者のある者は引き取られたが無縁の者は地蔵尊礎石の背面内側に穴を掘って首を投げ入れたものである。 建立年 享保11年(1728)
碑文がよくわからず正確ではありませんが、以上のような内容です。
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日光市 足尾 梵天岩 |
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日光市 足尾 梵天岩
19.9.25 |
佐野市 基幹林道前日光線 大荷場木浦沢線 |
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佐野市 林道 25.12.5
佐野市 基幹林道前日光線 大荷場木浦沢線 県指定氷室自然環境保全地域
道路幅が狭く、ガードレールがない。そのうえ道路下の木々が伐採されている。
落ちたらどこまで転げ落ちるかわからない。
後ろの山は岳ノ山704m。 |
宇都宮市 男抱山 |
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宇都宮市 男抱山18.12.2
不安定な岩。落ちそうで落ちない。岩の名前は不明。
地震なんかで転げ落ちないですかね。
ヤッホ岩:前わかりません |
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白蛇弁財天 二宮町 |
風見の発電所 |
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風見の発電所
30.10.13
軍艦をイメージした。
地元の方に、「イノシシに気をつけてね」といわれた。
よけい、怖い。 |
那須町黒川発電所 |
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黒川発電所
29.3.3 栃木県那須町
土木遺産ということなので見てきました。この発電所を探すのに苦労しました。
トンネル脇の高いところにありました。現役の発電所です。
黒川発電所記念の碑
起工:大正8年10月10日
竣工:大正10年7月10日
栃木県立大田原中学校教諭従七位渡辺留吉書
※このような記念碑の場合、偉い軍人とか県知事・市長など時の有名人が書くのが普通と思っていましたが、中学校の先生が記念碑の文字を書いたということですね。地元でも書が上手で評判な先生だったのでしょう。書が作品としてこのように残ることはすばらしい。
この黒川発電所を見て感じたことは、どこからここまで水を引いているのかということです。再度、取水口を見てこようと考えております。
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■大船渡市のホームページには・・・
吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)
岩手県では沿岸部を中心に来訪神行事が分布していて、県北部には「ナモミ」「ナゴミ」と呼ばれる行事が、大船渡市には「吉浜のスネカ」「崎浜のタラジガネ」が伝わっています。「吉浜のスネカ」は、それらを代表する行事として、平成16年に国の重要無形民俗文化財指定を受けています。
三陸町吉浜では、小正月(1月15日)の晩になると鬼とも獣ともつかない面をつけ、みのに身を包んだ「スネカ」が家々を訪れます。「スネカ」という呼び名は「スネカワタグリ」を縮めたものです。冬の間、長いこと囲炉裏にあたって火斑(ひがた)ができた怠け者の「脛皮(すねかわ)」を「たくる(剥ぎ取る)」ことから来ています。
アワビの殻を腰にぶら下げ、俵を背負い、身を屈めて鼻を鳴らしながら歩くのがスネカの特徴的な姿です。 |