・・・・・鹿沼市の風景・・・・・ |
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緑町(みどりちょう)86 |
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▼緑町の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・ ■緑町(みどりちょう)1丁目・2丁目・3丁目
1丁目も2丁目も3丁目も昭和48年に茂呂の一部が新しい町としてう生まれました。
「緑」は「緑の山」とか「緑の街」とかいう使い方のように草木をさすことがあります。また「自然」とか「ふるさと」さらに「平和」「安全」を思いうかべる色です。草木の緑が多い町、自然が残っている町、平和な住みよい町などさまざまな願いをこめてつけられたのでしょう。 |
緑町地内 |
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■むかしの茂呂村 (現在の茂呂・東町・幸町・緑町・西茂呂・栄町・晃望台)
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
●茂呂村
村の中央に茂呂山(192.6m)がある。洪積台地で河川がなく畑作地帯であるが、茂呂溜をはじめ多くの溜があり、これらの用水によって水田稲作が行われてきた。宝永4年(1707)の新田畑検地では、上・下に分けて検地帳が作成されており、宝暦10年(1760)の記録では上茂呂村分358石余・下茂呂村300石余とある。天保9年には家数80軒・人数394人・居酒屋1・質屋1とある。鹿沼宿の助郷村であった。
●上茂呂村の概要
上茂呂村は、黒川左岸の段丘上に位置し、谷頭溜、西茂呂溜といった溜池を先頭に谷田が分布する村である。近世前期には下茂呂村も含め、茂呂村として一村であったが、のちに上茂呂村、下茂呂村に分村した。貞享3年(1688)に上茂呂村のみを対象とした新畑検地帳が残されていることから、茂呂村が上下二村に分村したのはその頃と推定される。明暦2年(1656)に茂呂村としての宇都宮藩による検地を受けており、田高211石、畑高352の石高が打ち出されている。畑一〇〇町余に対して田が二五町余の畑作優位の村である。分村後の石高は、宝暦10年(1760)の記録によれば、下茂呂村が300石余、上茂呂村が358石余である。近世の支配関係は、下茂呂村と同一で、宇都宮藩領、幕府領、旗本西郷領、宇都宮藩領、幕府領、旗本小笠原領、幕府領、佐倉藩領、幕府領と目まぐるしい領主の変遷があり、最終的には寛政10年(1798)から幕末まで佐倉藩領であった。上茂呂村の鎮守は高尾神であり、かつて村内には天台宗宝蔵院があった。
●下茂呂村の概要
下茂呂村は、黒川左岸の段丘上に位置する畑作を中心をした村である。もとは上茂呂村とあわせて茂呂村を形成していた。延宝4年(1676)にはすでに上茂呂村・下茂呂村の名称の使用が認められるが、貞享3年(1686)までにはほぼ二村に分村したものと思われる。村の支配関係は宇都宮藩領、幕府領、旗本西郷領、宇都宮藩領、幕府領、旗本小笠原領、幕府領、佐倉藩領、幕府領と目まぐるしい領主の変遷があり、最終的には寛政10年(1798)から幕末まで佐倉藩領であった。村の南端には元亀年間(1570〜1572)に築城されたと伝えられる茂呂城跡があり、現在も掘割を確認することができる。村の北端に上茂呂村・下茂呂村の檀那寺としての天台宗智音寺があり、もとは村の南端にあった万蔵寺を移動したものとされる。また、鎮守は村の南端に位置する星宮社(虚空蔵)である。
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本による分給支配地である。
相給=複数の領主下
自分のお寺のことを檀那寺(だんなでら)と呼ぶ。檀那寺とは布施で成り立っているお寺のこと。その布施する家のことを檀家という。
■むかしの千渡村 (現在の千渡・東町3丁目・幸町2丁目・上野町)
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
●千渡村
千渡山のふもとにある。北に栃窪村、南は茂呂村、西は武子村に接する。「慶安郷帳」には田232石余・畑278石余とある。天保9年の家数85軒・人数374人で農間渡世として居酒屋1軒・醤油屋1軒がある。この村には神社が多い。二荒山神社・天満宮・羽黒神社・駒形神社・道祖神社・琴平神社・学大神社・八坂神社・二渡神社・山神神社・熊野神社・皇大神社・瀬戸神社などである。
●千渡村の概要
村高は「慶安郷帳」では511石余、「元禄郷帳」では705石余。宇都宮藩領、甲斐国谷村藩領などをへて、足利藩領と下総国多古藩領の相給となり幕末に至った。天保9年(1838)時の家数85軒、人口374人。鹿沼宿の定助郷。足利藩領として、当村と深津村・白桑田村の三か村は上郷三か村と称された。寺院は
曹洞宗竜蟠寺、真言宗宝性寺があった。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
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