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◆下野の国 小野寺郷 円仁さま 祈りの里(岩舟町 大慈寺でいただいたパンフレットより) |
下野の国 小野寺郷 円仁さま 祈りの里(大慈寺でいただいたパンフレットより)
圓仁(えんにん)794−864 諡(おくりな)は慈覚大師、第三世天台座主。
延暦13年都賀郡〔栃木県)に生まれる。9才より大慈寺で修行広智に師事。
15才で比叡山最澄の弟子となる。43才で入唐請益僧に9年余にわたる求法の旅へ、帰国後仏教の普及につとめ天台密教を充実比叡山興隆の基礎を築いた。
「入唐求法巡礼行記」は駐日大使ライシャワー博士により世界中に紹介され、当時の状況を知る正確な世界最古の旅日記として知られる。 |
壬生町「わが町の史跡を訪ねて」パンフレット・・・
慈覚大師誕生地(じかくたいしたんじょうち)
慈覚大師(794-864)は壬生の地御里(新町)に生まれたと言われています。姓を壬生氏、名を円仁といいます。幼少にして父を失い母に育てられましたが、温和で強い性格の持ち主でした。
9才の時大慈寺の僧広智菩薩に学び、15才で比叡山に登り伝教大師(最澄)に師事しました。また838〜847年の間、唐に渡り天台宗を学びました。在唐中には武宗の廃仏にあい、俗人に身を替えたりの苦しい求法をしました。
この旅行中に書いた「入唐求法巡礼行記」は、マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」とともに世界三大旅行記の一つとして高く評価されています。帰朝後は、天台宗第三世座主となり、伝教大師の偉業を大成し日本天台宗の基礎を築きました。
寺の正面は「大師堂」と呼ばれ、慈覚大師を祀っています。このお堂は貞享3年(1686)日光山輪王寺の願いによって壬生城主三浦壱岐守正次によって建立されました。このお堂のすぐ西に「大師産湯の井戸」があります。また境内には、県指定天然記念物の「大イチョウ」があります。 |
岩舟町 大慈寺 |
壬生町 壬生寺 |
真岡市 瑞光寺 |
足尾 龍蔵寺 |
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二宮町 宗光寺 |
山形県 山寺 立石寺 |
栃木市 六角堂 |
芳賀町 常珍寺 |
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真岡市 般若寺 |
慈覚大師御母公の墓 |
湯津上 光丸山法輪寺 |
真岡市二宮 長栄寺跡 |
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●勝道上人年表● |
上都賀郡誌(上)・(下)・・・
4.勝道上人(しょうどうしょうにん)
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真岡市 勝道上人誕生地 仏生寺 |
(イ)勝道上人
この時代の我が郷土の文化にとって特筆すべきことは、勝道上人の出現である。天平7年(735)4月21日下野国芳賀郡高岡の里に生まれる。
上人は垂仁天皇(すいにんてんのう:第11代天皇)第9の皇子池速別命(いけはやわけのみこと)第18世のえい(※末裔)、高藤介(※若田高藤・高藤介・わかたたかふじ・たかとうのすけ 読み不明)と言う人の子で幼名を藤糸(※読み不明・ふじいと・とうじ)と呼んだ。 |
天平勝宝6年(754 てんぴょうしょうほう)藤糸20才の時、夜中ひそかに家を出て出流(いずる)の岩窟に入って篤信に勉強した。
この間3年間、更に夢のお告げによって出流山奥の大剣峰(※横根山らしい。読み不明:おおけんがみね)に入って修行し、24才の時出流観音(※栃木市の満願寺?)に帰った。
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天平宝字3年(759 てんぴょうほうじ 淳仁天皇の代)、聖武天皇(しょうむてんのう 第45代天皇※749没 生前薬師寺を建てなさいと命じたのでしょう)は下野薬師寺に戒壇をお建てになった。この時藤糸25才、仏道修行の心に燃える彼は、薬師寺に赴き、当時、唐より来朝した高僧鑑真和尚(鑑真和上:鑑真は律宗・天台宗を学んだ和上(わじょう))の弟子である如意僧都(読み不明 にょいそうず)、及び唐人、恵雲律師(読み不明 けいうんりつし)について研学(けんがく:学問を研究した)した。こうして27才の時剃髪して厳朝(読み不明 げんちょう)と称し、後自ら勝道と改称した。勝道が薬師寺にいること5ケ年間、その間に虚室蔵大悲来聞持法(読み不明:※調べると虚空蔵求聞持法はあるのですが)、華厳経(けごんきょう)、法華金光明(読み不明 ※法華経と金光明経のことか?)唯識論(ゆいしきろんと読むのでしょう)などの研鑽に専念された。 |
(ロ)上人の二荒開山
天平神護元年(765 てんぴょうじんご)9月、勝道は補だらく山開拓の途に就き(つき)、まず出流の観音に詣ではるか雲際にそびえる二荒嶺(現在の男体山と周辺の山々)を仰ぎつつ、ついに大剣峰古峰原の道場に入った。しばらくここに仮庵を結び、道経三昧(?何かお経の一つでしょう)の生活に着き、更にこれより二荒の峰を仰ぎつつ峰峰を跋渉(ばっしょう:山野を越え、川をわたり、各地を 歩き回ること)し、同2年3月大谷川を渡り対岸に四本龍寺を建ててここに居住を定められた。 |
神護景雲元年(767 じんごけいうん)4月上人33才の時、二荒(現在の男体山)の絶頂(山頂)を極めようとして四本龍寺を出てより山賊(当時そんなに家もなく人が住んでいたと思われないので、熊・狼等の獣のことか)と闘い修行すること10余年、桓武天皇(かんむてんのう、737年〜806年4月9日 第50代天皇)延暦元年(782 えんりゃく)3月上人48才の時初めて絶頂(頂上)に達した。それより湖畔を周遊して神宮し(神の宮を祀った意味?)それは二荒山神社の傍らにあったが、明治35年の洪水の後、歌が浜に移し、現在国宝として観音堂(どこだろう 立木観音?)に安置されている。 |
(日光砂防事務所HPには明治35 年(1902 年)9 月28 日。足尾台風が栃木県全県に被害をもたらしました。大谷川では水源部で崩壊が多発し、神橋、大谷橋、人家100余戸を流出。死者156、行方不明63、負傷280、家屋全壊8217、半壊389 に至りました。)とあります。・・・ |
上人は山林抖そう(とそう:衣食住に関する欲望を捨て,仏道を修行すること。)の行に励んで仏を信奉するのみならず、よく朝廷国家のために祈祷し、大同2年(807 だいどう)夏、上人73才の時、東国干ばつの際、下野国司橘利遠(橘俊遠という人物はいた)の依頼により雨を祈ると、雨がはい然(沛然 雨が勢いよく降るさま)として来た。その功により常総の済物(さいもつ 荘園制時代、みつぎものとして納めた地方の産物)を賜った程である。 |
(ハ)上人の入滅
上人はその後年々二荒の絶頂に登り、弘仁7年(816 こうにん)4月、82才の高齢の時頂上の対面石の所において日光三社権現の影を拝してこれを祀り、翌弘仁8年3月1日上人は四本龍寺に教旻(きょうびん)、仁朝等の十哲その他の徒弟を集め、二荒山開闢(かいびゃく)の由来及び皇室国家のために神仏を奉し、永く法灯を継ぐべきことを遺言して眠るがごとく入滅された。実に上人83才の時である。仏岩谷(開山堂隣)、上野島(中禅寺湖)、菖蒲ケ浜の瑠璃壷(※龍頭滝近くの地獄沢にあるようです。)の霊地の3ケ所に納められてある。 |
(ニ)上人と足尾
神護景雲元年(767)、勝道上人は足尾庚申山に登り、詣路(読み不明 けいろ 参詣路のこと?)を初めて開通したと伝えられ、また、足尾町にある龍蔵寺は大同2年(807)勝道上人の開基によるものである。 |
(ホ)上人と加蘇山神社
本郡加蘇村にある県社加蘇山神社は第49代光仁天皇の御代、勝道上人の開山と伝えられる。 |
(ヘ)上人と古峰原神社(古峯神社)
古峰原神社由来によれば、天平宝字元年(757)勝道上人23才の時出流の岩窟を出て、大剣峰に至るとある。この大剣峰はすなわち今の三枚石の所で、上人はここにおいて苦行すること数年、その間上人に食料その他日用品を給し、あるいは雪踏み、道案内等をした者が今の古峰原家の祖先であると伝えられる。 |
(ト)上人と鹿沼の千手観音
鹿沼の千手観音は日光中宮祠の立木観世音と日光清滝の観世音と共に一ケ木三体の観世音と称し、上人の作にかかるものであると言う。 |
栃木市 満願寺 |
鹿沼市 古峯神社 |
真岡市
勝道上人誕生の地 |
鹿沼市
勝道上人修行の地
深山巴の宿 |
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日光山内の勝道上人銅像 |
日光市
勝道上人像堂 |
鹿沼市 金剛山 |
宇都宮市 持宝院 |
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日光市 中禅寺 |
日光市 四本龍寺 |
栃木市 善応寺 |
日光市 勝道上人の墓所 |
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足尾
猿田彦神社(銀山平) |
日光市 温泉寺 |
日光市 浄光寺 |
日光市 花石神社 |
蓮華石 |
■龍蔵寺(赤倉)天台宗 |
■宝増寺(赤沢)天台宗 |
■蓮慶寺(赤沢)真宗 |
波之利大黒天(田元) |
今市 滝尾神社 |
勝道上人の父
藤麿墳周辺96 |
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上三川町 満願寺 |
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