・・・・・鹿沼市の風景・・・・・
鹿沼市町名一覧へ
   鹿沼市の町の風景 24.6.28    09
磯町(いそまち)
朝日町01 ・・・麻苧町02 ・・・旭が丘03 ・・・東町04 ・・・油田町05 ・・・池ノ森06 ・・・石橋町07 ・・・泉町08 ・・・磯町09 ・・・板荷10
今宮町11 ・・・上野町12 ・・・大和田町13 ・・・御成橋町14 ・・・亀和田町15 ・・・貝島町16 ・・・加園17 ・・・上石川18 ・・・上大久保19
上久我20 ・・・上材木町21 ・・・上田町22 ・・・上殿町23 ・・・上奈良部町24 ・・・上南摩町25 ・・・上日向26 ・・・北赤塚町27 ・・・銀座28
草久29 ・・・久保町30 ・・・晃望台31 ・・・高谷32・・・古賀志町33・・・次へ
▼地図で見るとやや東西に東北自動車道が通り、▼南北に東武鉄道がとおり、同じく例幣使街道、日光西街道が通っている。これだけの重要な道路等が通っていると地図を見て気がついた。▼町内の東部には南北に黒川が流れている。普通川を境に町名が変わるものと思っていた。▼建物では南押原中学校、南押原小学校、アジサイで有名な磯山神社がある。▼磯山神社は大手の観光会社のバスツアーの一つの目玉になっているような気がします。▼大挙してバスバスが押し寄せ、観光客が大勢見学に押し寄せるような風景をみました。▼地元民としては大変うれしいことですが、トイレの整備をもっと充実してほしいところです。特に女性用を考えてほしいと感じました。▼それと最近アジサイの高さ(樹高)が大きくなってきて、写りが高くなったような気もします。
▼南押原の歴史探訪より・・・
10.磯山神社  いそやまじんじゃ
永延2年(988)9月、高野下野守藤原権助の勧請で、当山明神と称し、磯、赤塚、亀和田、七ツ石、羽生田5か村の鎮守であった。
江戸時代初期に磯山明神と改称。
▼磯町の名前の由来ですが、
▼「少年少女のための鹿沼の町名」 黒川常幸氏発行本によると・・・
磯には岩の多いところという意味があります。また、むかし、石をいそとよんだので、石の山、あるいは石の多いところということでつけられたのかもしれません。
アジサイの時期の磯山神社参道の画像です。
■磯山神社でいただいた由緒沿革には
社伝に磯山神社は一条天皇の御宇永延2年(988)高野下野藤原権助の創建にて当山明神と称し磯、亀和田、赤塚、七つ石、羽生田五ケ村の総鎮守であった。西方城主西方遠江守烏丸景泰(烏丸大納言)永仁6年(1298)宇都宮二荒明神を勧請合祀し祈願所とする。壬生城主、壬生上総介義雄、篤く当社を崇敬し永禄10年(1568)鰐口を寄進せられる。
江戸初期に磯山明神と改称、徳川将軍代々の崇敬社にて、慶安元年(1648)三代将軍家光公より高七石一斗余の朱印を附せられてから、代々の将軍より同待遇を受け、神主金子氏別当円徳寺をもって奉仕させた。寛文2年(1662)現在の本殿完成、享保元年(1716)宗源宣旨正一位を授かる。文化12年(1815)拝殿改築、明治初年磯山神社と改称、同5年郷社に列格、旧南押原郷及び奈佐原、塩山、池の森、七つ石の総鎮守に、同15年村社になる。大正7年幣帛神饌料供進指定村社に指定せられる。
昭和25年木羽葺の本殿屋根を銅板に葺き替える。昭和39年10月拝殿改築落成。・・・
と書いてありました。
■むかしの磯村  
「鹿沼市史資料編 近世2」参考

●磯村
東部に黒川・西部の山麓を流れる小藪川に挟まれた水田稲作地帯である。また、東に壬生通り西に例幣使街道と二筋の街道が地内を通る。正徳2年(1712)より幕末まで鳥居氏(壬生藩)領。楡木宿の助郷村であった。天保年間の村高676石余・家数65軒であった。字当山には磯山神社があり宮座が組織されていた。文化年間には鈴木新右衛門が一本松学舎を開塾している。

●磯村の概要
黒川西岸に位置し、村の東部を壬生通り、中央を例幣使街道がそれぞれ南北に通る。壬生通り・例幣使街道は、ともに南の亀和田村から当村に入り、北の楡木村で合流する。「慶安郷帳」では田309石余、畑240石余、磯山明神領として7石余が記載される。当村の鎮守は磯山明神(現磯山神社)で、当初は「当山明神」と称していた。

慶安郷帳  1648年
元禄郷帳  1701年
天保郷帳  1834年 

一給支配=一村一領主、二給支配=一村二領主、三給支配=一村三領主というように旗本に
よる分給支配地である。
相給=複数の領主下


鹿沼市教育委員会発行「鹿沼市の文化財」には、磯山神社について次のような説明があります。

磯山神社本殿・・・・・・江戸時代
寛文2年(1662)建造と伝えられる三間社流れ造りで、建物全体が弁柄(ベンガラ)塗りとなっています。屋根は建造当初は桧皮葺(ヒワダブキ)だったものが、後に柿葺(コケラブキ)となり、さらに昭和25年(1950)に現在の銅板葺になりました。